じじぃの「歴史・思想_327_ユダヤ人の歴史・ユダヤ戦記・マサダ」

Masada Moutaintop Battle

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=gZjCfwKXjWY

Jewish - Roman wars

Jan 28, 2020 Alchetron, The Free Social Encyclopedia
First Jewish-Roman War (66-73 CE) - also called the First Jewish Revolt or the Great Jewish Revolt, spanning from the 66 CE insurrection, through the 67 CE fall of the Galilee, the destruction of Jerusalem and the Second Temple and institution of the Fiscus Judaicus in 70 CE, and finally the fall of Masada in 73 CE.
https://alchetron.com/Jewish%E2%80%93Roman-wars

熱心党 コトバンク より

ローマ帝国時代の過激なユダヤ民族主義者の集団。
武力をもってローマの権力に対抗した。革命的党としての組織が最初に言及されるのは 66年のローマに対する第1次ユダヤ反乱のときであるが、通常6年にガリラヤ人ユダが反乱したときにさかのぼると考えられている。カナエームおよびゼロテスはそれぞれヘブライ語およびギリシア語の「熱心さ」に由来する。
十二使徒のなかにも党員のシモンがおり、さらにイエスを裏切ったイスカリオテのユダ、およびヤコブヨハネもこれに関係していたのではないかと考えられている。

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ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

ヨセフスと大反乱 より

紀元1世紀のローマによるパレスチナ統治は、不手際がめだち、成功していなかった。また慢性的な財政破綻状態にあり、税の支払いを口実になされた神殿金庫からの収奪は、大きな怒りをかう。借財を抱えた者や政治的の不満を抱く者が集まり膨れあがったならず者の集団が、捕縛されないまま多数徘徊していた。農民の多くは、到底返済が不能なほどの借金を抱えていた。ギリシャ人とユダヤ人が共に住む町々は、しばしば一触即発の緊張状態にあった。
実際、紀元66年の反乱そのものは、エルサレムではなく、ギリシャ人とユダヤ人の間で争われた訴訟でギリシャ人が勝訴したすぐあと、カイサリアで勃発したのである。勝訴した側は、ユダヤ人地区でユダヤ人に乱暴狼藉(ろうぜき)を働いて勝利を祝い、その間ローマの守備隊は何もしようとしなかった。この事件についての報(しら)せが伝わると、エルサレムで騒乱が起こる。そしてまさにこの時、総督フロルスが神殿の宝庫から金を取り上げようとしたため、さらに反感が高まった。戦闘が起こり、ローマの兵隊が上の町で略奪を働く。神殿の祭司たちは、ローマ市民とローマ皇帝のために犠牲を捧げるのを中止する。ユダヤ人穏健派と強硬派の間で、激しい論争が起こった。他の都市ではギリシャ人多数派がユダヤ人居住地区を襲撃し、彼らの家を焼いたので、怒りに燃え復讐を望むユダヤ人難民がエルサレムを埋める。彼らの出現によって風向きが変わり、過激派の優勢が決定的となった。ローマ守備隊が攻撃され、兵士たちが惨殺される。このように大反乱は、ギリシャ人とユダヤ人の間の内戦であり、人種間戦争であった。
しかしそれは同時に、ユダヤ人同士の内戦でもあった。なぜならマカバイ時代と同様、ユダヤ人上流階級に属する者の多くがギリシャ化しており、ギリシャ人による悪業に一翼を担(にな)うものと考えられたからである。過激な民族主義者たちがエルサレムを制圧すると、彼らは富裕階級に攻撃の矛先を向けた。彼らが真っ先に取った行動の1つは、神殿の公文書庫を焼き払い、それによって借財の記録をすべて抹消することであった。
紀元66年の大反乱とエルサレム包囲は、ユダヤ人の歴史全体の中で最も重要かつ恐ろしい事件の1つである。不孝なことに、この出来事についてはきわめて不完全な記録しか残っていない。
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ユダヤ人の歴史家であるフラウィウス・ヨセフスは、これら一連の出来事で大きな役割を果たし、2つの異なった記録を残した。そのうち『ユダヤ戦記』は、マカバイ時代から後のパレスチナにおけるユダヤ人の歴史を概観したうえで、紀元66年から70年までの出来事を詳細に記述している。この史書の大半は、ウェスパシアヌスを継いだティトゥスがまだ存命中に書かれたものである。そして約20年後、ヨセフスは『ユダヤ古代史』を著す。この書は主として聖書に基づき、天地創造から紀元66年までの歴史すべてを網羅しており、著者の自伝的な著作が付加されている。『ユダヤ戦記』とこの『自伝』の間には、多くの食い違いがある。古代の歴史家のほとんどは、偏(かたよ)った動機をもって、歴史書の執筆を行なった。ヨセフスの問題点は、2つの書を著す間に、その動機が変化したことである。
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ティトゥスは6万人の軍勢を抱え、最新式の攻城装置を擁していた。そしてユダヤ人が上に苦しみ、彼らの間に仲間割れが生じて、陥落するのを待てばよかったのである。これに対して守る側は、2万5000人の兵士がいくつかの集団に分裂していた。エルアザル・ベン・シモンに率いられる熱心党の面々は、アントニア要塞と神殿を固めた。過激主義者シモン・バル・ギオラとその配下にあるスィカリ派の戦士たちは、上の町を支配した。イドマヤ人その他の分派は、ギスカラのヨハネのもとに集まった。市民と避難民からなる群衆は、これら武装派に囲まれ逃れられなくなった。
ヨセフスは包囲戦の最終段階で現出した光景を、恐るべき克明さで描写した。ローマ人は最後の最後まで、戦い続けざるをえなかった。アントニア要塞を襲撃し、そのあと、神殿を制圧して、火をかけた。1ヵ月後、ヘロデの要塞を奪取する。人々は奴隷として売られ、虐殺され、あるいは生きて捕囚となり、カイサリア、アンティオキア、そしてローマの闘技場でなぶり殺しにされた。シモン・バル・ギオラは生け捕りにされ、ティトゥスの凱旋と同時にローマへ送られ、中央広場で処刑された。ティトゥス凱旋門は、今も同じ場所に建つ。石造りの側面には、ティトゥスが奪って持ち帰った神殿の七枝の燭台が彫られている。将軍は自分の宮殿に、至聖所を覆っていた幕と聖典1巻を保管した。残念ながらそれは失われて、今はない。
エルサレムが陥落したあと、ユダヤ人の抵抗の中心は3つしか残らなかった。そのうちヘロディウムはまもなく奪取され、マカエロスは72年に制圧された。最後のマサダユダヤ砂漠のへりに聳える高さ1300フィートの岩山で、紀元前37年から31年にかけて、ヘロデ大王が要塞化したものである。ここへ近づくには、ヨセフスが「蛇のように曲がりくねった道」と呼んだ道を通って行くしかない。紀元66年、ユダヤ人は「機略」を用いて、この要塞をローマの守備隊から奪取した。攻略にあたって英雄となったのは、メナヘムである。熱心党の創設者であり革命家として処刑された。ガリラヤ人ユダの息子であった。しかしメナヘムは、エルサレムにおける絶え間ない勢力争いの渦中で殺されてしまう。マサダ要塞守護の任務は、甥のエルアザルに引き継がれた。
紀元72年の終わりにローマの将軍フラウィウス・シルバがようやくこの砦を取り囲んだとき、要塞の中には960人の叛徒と難民が立てこもっていた。男だけでなく、女や子供もいたのである。
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発見された陶片の中には、最後に生き残った10人が、仲間のうち9人を殺したあとで自らの命を断つ者を決定するために投げた、賽(さい)らしきものがあった。要塞には付属したシナゴーグで礼拝が行われた事実の豊富な証拠や、聖書と宗派教典そして黙示録文書14巻の断片は、要塞に立てこもった戦闘的な守備隊が神を神を畏れる集団であり、ユダヤ文学の畏怖すべき力から深い影響を受けていたことを示している。
包囲戦の結果、エルサレムは廃墟となった。神殿は破壊され、城壁は崩れ落ちた。しかし7年間に及ぶ血なまぐさく恐ろしい経験を経ても、ギリシャ人とユダヤ人の対立は終わらない。いかに絶望的であろうと、信仰を守るためならば暴力に訴えることも辞さないという。敬虔なユダヤ人が世代を問わず抱く宗教的感情の強さは、少しも弱まることがなかった。反ユダヤの感情は、ますます広がりつつあった。エルサレムの陥落は、ユダヤ人が神に嫌われていることの証左とされた。