じじぃの「歴史・思想_328_ユダヤ人の歴史・ローマのキリスト教公認」

Emperor Constantine the Great - Rome's first Christian emperor.

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ogJHvEUKbFg

Constantine The Great

Constantine The Great

Visitors to York today will see a statue of the Roman emperor Constantine The Great outside the south entrance to York Minster.
Venerated as a saint by the Orthodox Church, he is a significant figure in Christian history; putting an end to the persecution of believers during his reign and converting to the faith himself.
http://www.york-pm.co.uk/constantine-the-great/

ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

ユダヤ教キリスト教の分離 より

ローマ軍による紀元70年と135年のエルサレムの攻防に起った大きな災いは、古代におけるユダヤ国家の歴史を事実上終わらせた。
これによって直ちに、大きな歴史的意義のある結果が2つもたらされた。1つはユダヤ教キリスト教の最終的な分離である。紀元50年前後に著した文章の中で、パウロモーセの律法を、義認と救済の手段としては、ほぼ否定しきった。こrまでに見たとおり、この点においてパウロはキリストの教えに忠実であった。エルサレムで開かれたユダヤキリスト教指導者たちとの会合で、パウロは非ユダヤ教徒の改宗者たちをユダヤ教の戒律遵守から免除する権利を獲得する。しかしだからといって、ユダヤ人とキリスト教徒たちが互いの信仰を相容れないものをみなしたわけでも、それぞれの支持者が相手と敵対関係にあると考えたわけでもない。
おそらく60年代に書かれた「ルカによる福音書」は、ギリシャ化した離散ユダヤ人の書物に類似している部分があるが、ユダヤ教へ改宗する可能性がある者を念頭において書かれた。ルカは律法を、ユダヤ民族独自の道徳と慣習をより演練し高めた体系として捉えた。そしてそれを要約し、単純化しようと試みたようである。敬神はユダヤ人非ユダヤ人の間で、変わるところがなかった。律法も敬神も、魂が福音を受け入れるための準備を行なう手段である。非ユダヤ人もまた、よき慣習をもっていた。ユダヤ人の慣習である律法を有さぬからといって、神は非ユダヤ人を差別しない。もちろんユダヤ人を差別することもない。両者とも信仰と祝福によって、救済を受けるのである。
ユダヤ人もユダヤ人も超越的宗教であるキリスト教へ帰依することができるという考え方は、エルサレムにあったユダヤ人のキリスト教会をほぼ灰燼(かいじん)に帰しめた66年から70年にかけての騒乱を境に、消滅した。この教会の信徒は、そのほとんどが命を落としたに違いない。生き残った者たちは散り散りになった。彼らの伝統はいずれにしてもキリスト教の主流を外れ、のちに異端と宣されるエビオン派という弱小な分派としてのみ残存した。
こうして生じた真空を埋めて栄えたのが、ギリシャ化したキリスト教であり、彼らはやがて全体を占めるようになる。
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中でも特筆すべきは、キリスト教徒がユダヤ文学の伝統のうちから生起した事実である。したがって彼らは、他の何にもまして、聖なることがらに関するユダヤ人の攻撃的論争的な性向を受け継いだ。すでに見たように、これはマカバイ時代に見られた殉教者賛美の名残であり、紀元1世紀に著されたユダヤ人の書物のきわめて重要な一側面であった。最初期のキリスト教文書は、ユダヤ教各派が互いに他派を攻撃しあった敵対的な調子を、そのまま用いている。キリスト教ユダヤ教の分裂がついに修復不可能となると、両者は言論による攻撃のみを通じて交流するようになった。
短期間のうちにキリスト教のトーラーとなった4福音書は、ユダヤ教の論争的分派的傾向を取り入れた。この点で福音書の内容は、いくつかの死海文書にたいへんよく似ている。そして死海文書と同様、ユダヤ人の仲間内での論争を収録したものと捉えるべきである。「ユダヤ人」という言葉は、「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」に、それぞれ5回、「マルコによる福音書」に6回、「ヨハネによる福音書」に71回登場する。これは必ずしも「ヨハネによる福音書」が書物の形で成立したのが遅れ、ユダヤ教に対しその分だけ敵対的であったためばかりではない。実際、福音書の中で最も古いのは、ヨハネによる福音書の原型であった可能性さえある。この福音書では、「ユダヤ人」という言葉に、さまざまな意味がこめられたようである。
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ユダヤ教ユダヤ民族をトーラーに凝縮する過程は、ダビデ王国の末期からずっと、絶え間なく続いていた。ヨシヤ王の改革、バビロン捕囚、帰還、エズラの業績、マカバイ兄弟の勝利、ファリサイ派の勃興、シナゴーグ、宗教学校、ラビ――これらすべての展開を通じて、ユダヤ人の宗教的および社会的生活におけるトーラーの絶対的優勢がまず打ち建てられ、急速にその地位にその地歩を固めた。この過程で、ユダヤ教ユダヤ人が有していた他の精度は、すっかり影を失ってしまった。135年以降、トーラーの絶対性を阻むものはなくなる。他に何も残っていなかった。厳格主義者たちは、一部意図的に、また彼らがもたらした惨状ゆえに、他のものをすべて捨て去った。
果たしてこれは神の恩寵であっただろうか。紀元2世紀の時点での短期的な視点に立てば、ユダヤ人は当時民俗的宗教的集団として強力であったにもかかわらず、自ら破滅を招き寄せ、あえてその結果に甘んじたように見える。紀元1世紀のほぼ全期を通じ、ユダヤ人はローマ帝国の人口の約10分の1を占めていた。いくつかの大都市では、さらにずっと高い人口比率を誇っており、彼らは拡大しつつあったのである。この人たちは時代の先端をおく超越的思想、すなわち倫理的な一神教を有していた。ほとんど全員文字が読めた。世界で唯一の福祉制度を運営してさえいた。上流階級をふくむすべての社会階層で改宗者を生み出した。フラウィウス王朝の皇帝が1人か2人、実際にユダヤ教へ改宗したとしてもおかしくない。それは250年後、コンスタンティヌ帝がキリスト教に改宗したのと、同じであった。ユダヤ人の歴史家であるフラウィウス・ヨセフスが次のように自慢したのも、むべなるかである。すなわち、「週の7日目にすべて仕事を休んで安息日を祝い、断食をしてろうそくを点(とも)す風習が、ギリシャ風であろうと異国風であろうと、どの町でもどの民族でも、およそ行なわれないところはない。(中略)神が宇宙に偏在するように、律法はすべての人間の魂に入り込んでいる」。
ところがたった1世紀のちに、すべてが暗転する。エルサレムはもはやユダヤ人の町ではなかった。一時期人口の40パーセントをユダヤ人が占めていたアレクサンドリアから、ユダヤ人の影響が完全に消えた。ヨセフス、タキトゥス、ディオは、2回の反乱で驚異的な犠牲者が出たと記録している。例えばタキトゥスによれば、紀元66年から70年までの戦いの間だけで、119万7000人のユダヤ人が殺されるか、もしくは奴隷に売られた。これらの数字には誇張があるかもしれないが。しかしこの時期、パレスチナユダヤ人の人口が急減したのは、明らかである・