じじぃの「歴史・思想_171_銃・病原菌・鉄・なぜ中国ではなくヨーロッパだったのか」

[Doku] Chinas Drachenflotte - Die Expeditionen von Admiral Zheng He [HD]

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=vc4jKWGUFi4

鄭和の南海遠征

永楽帝

世界の歴史まっぷ
明の洪武帝海禁政策をおこなったが、つづく永楽帝鄭和を南海に派遣し、一時南海交易が積極的におこなわれた。
しかし永楽帝の死後、再び海禁政策が復活した。明は、朝貢国に対して勘合符を与えて正式な朝貢船の証明とし、広州・泉州・寧波(ニンポー)に市舶司をおいて朝貢貿易を管轄するとともに、中国人の海外渡航を禁止した。
https://sekainorekisi.com/glossary/%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D/

銃・病原菌・鉄: 1万3000年にわたる人類史の謎(下)、ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳、草思社(2000年)

【下巻目次】
エピローグ 科学としての人類史
環境上の4つの要因/考察すべき今後の課題/なぜ中国ではなくヨーロッパが主導権を握ったのか/文化の特異性が果たす役割/歴史に影響を与える「個人」とは/科学としての人類史
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20141209/1473579333

『銃・病原菌・鉄 (下)』

ジャレド・ダイアモンド/著、倉骨彰/訳 草思社 2000年発行

エピローグ 科学としての人類史 より

環境上の4つの要因

「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」というヤリの問いかけは、まさに更新世以降の人類史、そして人類社会の核心をついているといえる。人類史の軌跡をそれぞれの大陸ごとに駆け足でたどってきたいま、われわれは、ヤリのこの問いかけにどのように答えるべきだろうか。
私ならこう答えるだろう。人類の長い歴史が大陸ごとに異なるのは、それぞれの大陸に居住した人々が生まれつき異なっていたからではなく、それぞれの大陸ごとに環境が異なっていたからである、と。

なぜ中国ではなくヨーロッパが主導権を握ったのか

肥沃三日月地帯や中国は、後発組のヨーロッパの数千年先を行っていた。それなのになぜ、彼らはその圧倒的なリードを徐々に失っていったのだろうか。もちろん、ヨーロッパの勃興の裏には、商人階級の台頭や、資本主義の発達、特許を手厚く保護する風土、絶対専制君主および過酷な税制の打破、実証主義を重んじるギリシャユダヤキリスト教の伝統といった直接的な要因が存在したと指摘することはできる。しかしわれわれは、こうした直接的な要因をもたらした究極の要因についても考える必要がある。つまりわれわれは、こうした直接的な要因が、なぜ肥沃三日月地帯や中国ではなくヨーロッパで見られるようになったのか、について考察しなければならない。
肥沃三日月地帯が圧倒的なリードを失ってしまった理由については答えがはっきりしている。この地域の人びとが初めの一歩を早く踏みだせたのは、適正のある野生種に恵まれていたからである。しかし、彼らが地理的に有利であったのは、その点においてだけであった。肥沃三日月地帯じは、強力な帝国が西へ西へと移動していく過程を通じてリードを失っていった。
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それでは、中国の場合はどうだったか。中国は、肥沃三日月地帯と同じくらい古い時代に食料生産をはじめていた。北部から南部に、そして沿岸地帯からチベット高原にまで広がる中国は、地形や環境の変化に富み、多様な作物や家畜や技術が誕生している。世界最多の人口を誇り、生産性に富む広大な土地を所有している。肥沃三日月地帯ほど乾燥していない。生態系も肥沃三日月地帯ほど脆弱ではない。そのため、西ヨーロッパより環境問題が深刻化しているとはいえ、食料生産の開始から1万年を経た現在でも、生産性の高い集約農業がおこなわれている。これらを考慮すると、中国がヨーロッパに遅れをとってしまったことは意外である。
中国は、始めの一歩を早く踏み出していた。そして、さまざまな有利な点をそなえていた。それゆえ、中世の中国は技術の分野で世界をリードしていた。中国で誕生した技術は数多くある。そのなかには、鋳鉄、磁針、火薬、製紙技術、印刷術といったものや、本書でふれたさまざまな発明が含まれている。中国はまた、政治制度の発達においても世界をリードしていた。航海術や海洋技術にも優れていた。15世紀初頭には大船団をインド洋の先のアフリカ大陸東岸にまで送り出していた(訳注 鄭和の南海遠征)。数百隻で編成されたこの船団には船体が400フィートに達する船も含まれていた。乗組員は2万8000人にも達した。彼らは、たった3隻のコロンブスの船団が大西洋を渡ってアメリカ東岸に到達する何十年も前に、インド洋を越えてアフリカ大陸にまで達していたのである。ではなぜ中国人は、アフリカ大陸の最南端を西に回ってヨーロッパまで行かなかったのだろうか。なぜ中国人は、バスコ・ダ・ガマの3隻の船が喜望峰を東にまわって東南アジアを植民地化しはじめる前に、ヨーロッパを植民地化しなかったのだろうか。なぜ中国人は、太平洋を渡って、アメリカ西海岸を植民地化しなかったのだろうか。言い換えれば、なぜ中国は、自分たちよりも遅れていたヨーロッパにリードを奪われてしまったのだろうか。
これらの謎を解く鍵は、船団の派遣の中止にある。 この船団は、西暦1405年から1433年にかけて7回にわたって派遣されたが、その後は中国宮廷内の権力闘争の影響を受けて中止されてしまった。これは宦官(かんがん)派とその敵対派の抗争であったが、この種の政治的争いはどこの国でもよくあるものだ。船団派遣政策を推進していたのは宦官派だったので、敵対派が権力を握ると船団派遣をとりやめたのである。やがて造船所は解体され、外洋航海も禁じられた。この出来事は、たとえば1880年代のロンドンのガス灯にかわる電灯による街路照明を阻止する法律の制定や、両大戦間のアメリカ合衆国政府の外交政策孤立主義)などを思いださせる。また、国内の政治状況に対応するため、既存の進んだ技術を後退させていったことは多くの国々をも思いださせるが、中国は国全体が政治的に統一されていたという点で、それらの国々とは異なっていた。政治的に統一されていたために、ただ1つの決定によって、中国全土で船団派遣の中止が中止されたのである。ただ一度の一時的な決定のために中国全土から造船所が姿を消し、その決定の愚かさも検証できなくなってしまった。造船所を新たに建設するための場所さえも永久に失われてしまったのだ。
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このように、ヨーロッパと中国はきわだった対照を見せている。中国の宮廷が禁じたのは海外への大航海だけではなかった。たとえば、水力紡績機の開発を禁じて、14世紀にはじまりかけた産業革命を後退させている。世界の先端を行っていた時計技術を事実上葬りさっている。中国は15世紀末以降、あらゆる機械や技術から手を引いてしまっているのだ。政治的な統一の悪しき影響は、1960年代から70年代にかけての文化大革命においても噴出している。現代中国においても、ほんの一握りの指導者の決定によって国じゅうの学校が、5年間も閉鎖されたのである。