じじぃの「歴史・思想_662_人類の足跡10万年全史・ヨーロッパ・オーリニャック文化」

AURIGNACIAN - the World's First Abstract Mindset Man (from Europe)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rzGNH3Hbaqw

ヨーロッパ人のルーツは?


ヨーロッパ人の遺伝学的な起源が判明

2013.04.25 ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
現代ヨーロッパの遺伝学的な歴史が初めて詳述された。最新の研究によれば、民族としてのヨーロッパ人は予想以上に歴史が浅いかもしれないという。

最初の現生人類は3万5000~4万年前、アフリカからヨーロッパにやって来た。3万年前ごろまでにはヨーロッパ全域に広がり、一方、近縁種のネアンデルタール人は消失。これら狩猟採集民のDNAが、ハプログループHだった可能性は低い。
約7500年前の新石器時代前期、今度は中東からヨーロッパに次の波が押し寄せた。作物の栽培方法とともに、ハプログループHの変異型が持ち込まれた。
考古学者たちは、中欧にやって来た最初の農耕民が形成した文化を線形陶器文化(LBK)と呼んでいる。線形の装飾を施した陶器が多く見つかっているためだ。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7884/

人類の足跡10万年全史

ティーヴン・オッペンハイマー(著)
【目次】
プロローグ
第1章 出アフリカ
第2章 現生人類はいつ生まれたのか

第3章 2種類のヨーロッパ人

第4章 アジア、オーストラリアへの最初の一歩
第5章 アジア人の起源を求めて
第6章 大氷結
第7章 だれがアメリカへ渡ったか

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『人類の足跡10万年全史』

ティーヴン・オッペンハイマー/著、仲村明子/訳 草思社 2007年発行

プロローグ より

遺伝子系統を名づける

本書では、父系あるいは母系一族、遺伝子系統、血統、遺伝子集団/系統、さらにはハプログループといった表現を言い換えながら使っている。これらの言葉はだいたい同じことを意味しており、共通の(たいていはそのミトコンドリアDNAかY染色体による)祖先をもつ遺伝子の型からなるグループということである。集団の大きさはあるていど恣意的で、その系統の根元を遺伝子系統樹のどのあたりまでさかのぼるかにかかっている。
    ・
ミトコンドリアDNAの場合はもう少し容易である。早い段階で多くの研究室が1つの用語体系に統一することに合意したからだ。たとえば、ただ1つの出アフリカ系統L3には、2つの非アフリカ娘系統のNとMがあることが認められている。わたしはそれらについては、Nは南アラビア起源であることを示すナスリーンと、Mはインド亜大陸に起源にふさわしいマンジュと呼ぶことにしている。

第3章 2種類のヨーロッパ人 より

最初の現生ヨーロッパ人

前章では、わたしたちのいとこのネアンデルタール人は、洗練された新しい上部旧石器時代の技術を、2万8000年前ころの絶滅の前に、すでに学びはじめていたと述べた。ネアンデルタール人と現生人類との文化的差異がこのように部分的に不鮮明だったからといって、最古の現生人類がヨーロッパへ移動したことを示すはっきりした文化的足跡を、考古学的にたどれないわけではない。逆に、現生人類にのみ関連づけられるいくつかの文化的様式は、3万年前以前から急速かつ連続的にヨーロッパへ広まっている。こうした様式が拡大していった年代や方角はさまざまで、またそれらには、道具や型や道具が発見された場所にもとづいていくつもの名前がつけられている。ヨーロッパで早期に現れた現生人類の文化は多様で、一部の考古学者はそれらを大きく2波にまとめている。文化的伝播よりももっと踏み込んで移動という概念をとれば、それぞれ付随する文化をもった2つの移住があったことが示唆される。4万6000年前に始まった最初の波は、特徴的な加工品が発見された南フランス(オートガロンヌ県)のオーリニャック村にちなんで、オーリニャック文化(フランス、ピレネー地方のオーリニャック遺跡を標準遺跡とする文化。石刃技法が確立した)と呼ばれている。おもに、2万1000年前から3万年前にかけてのあとのものは、フランス、ペルゴール地方のグラヴェット遺跡からグラヴェット文化と呼ばれ、背のある石刃(折りたたみ式小型ナイフのように一方の端が鈍くされている)と尖頭石刃を特徴とする。

肥沃な三日月地帯の門が開いた

このように母系遺伝子の系統樹は、もっとも古いヨーロッパの始祖が5万年前の南アジアに起源をもつことを示している。5万年以上前にははるか北のアナトリアに到着するためには、肥沃な三日月地帯を通路として使い、リビア砂漠とアラビア砂漠を迂回しなければならなかっただろう。分子時計のかなり大きな誤差範囲を考慮した上で、ザグロス山脈とイランの北西にある湾岸の沼沢地からの移動を、気候的な機会から考えると、木の年輪のように非常に正確な年代を割り出すことができる。第1章で指摘したように、肥沃な三日月地帯は乾燥しており、過去10万年のあいだのおおかたは閉ざされ、「亜間氷期」と呼ばれる天候が改善した短い期間だけ開いた。

6万5000年前から5万5000万年前にかけて、世界は間断のない寒冷と乾燥の時期に入り、その間、肥沃な三日月地帯は閉ざされていた。そして5万6000年前から、4つの暖かく湿潤な期間が次々と訪れた。5万1000年前のその最後のものは、もっとも暖かく長期にわたるもので、およそ5000年間つづいた。その亜間氷期は非常に暖かく湿潤だったので、インドの雨季は今日よりもさらに雨が多く、そのため肥沃な三日月地帯が開くだけではなく、レバントのネゲブ砂漠のような乾燥した地域も上部旧石器の製作者たちが住めるような場所になっていた。もし南アジアで人類が増加し、レバント地方まで広がっていける時があったとしたら、これこそがその機会だったろう。
気候的、考古学的な時計のタイミングが、5万年前から4万5000年前にかけての青々とした期間に収束していた。そのようなわけで、ナスリーンのもっとも早期の娘系統とその一族がレバント地方に到着した分子時計のタイミングはそうずれているわけではない。

ヨーロッパ人の故郷は2つのアジア

この遺伝子と人類の時間の旅は、2つの驚くべき結論を示唆している。1つは、ヨーロッパ人の遺伝的故郷は5万年以上前の南アジアのパキスタン/湾岸地域だったということ。2つめは、ヨーロッパの祖先たちは少なくとも2つの遠く離れたルートから、最終的には同じ、寒冷だが豊かな庭に入ってきたことである。このルートの最早期のものは、肥沃な三日月地帯を通るもので、それは5万1000年前に湾岸からの通路として開き、トルコを通ってブルガリア南ヨーロッパへの移動が可能になった。これは、オーリニャック文化のヨーロッパへの移動と一致しているようだ。2番めの南アジアからヨーロッパへの早期のルートは、インダス川からカシミール、さらに中央アジアへ北上したが、そこでおそらく4万年以上前に、狩猟者たちは初めてマンモスのように大きな獲物を倒しはじめた。
これらの狩猟者の一部は、その熟練した技術をたずさえて西へ向かい、ウラル山脈を越えてヨーロッパ・ロシアとチェコ共和国、ドイツへと移動していった。この東からの進出に関する保守的な見解では、中央アジアではなくトランス・コーカサスを、もっとも早期の現生人類のロシアへの進出ルートとしている。