じじぃの「歴史・思想_168_銃・病原菌・鉄・農耕民の登場」

Ancient agriculture

銃・病原菌・鉄: 1万3000年にわたる人類史の謎(上)、ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳、草思社(2000年)

【上巻目次】
第2部 食料生産にまつわる謎
第6章 農耕を始めた人と始めなかった人
農耕民の登場/食料生産の発祥/時間と労力の配分/農耕を始めた人と始めなかった人/食料生産への移行をうながしたもの
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20141209/1473579333

『銃・病原菌・鉄 (上)』

ジャレド・ダイアモンド/著、倉骨彰/訳 草思社 2000年発行

農耕を始めた人と始めなかった人 より

農耕民の登場

かつて、地球上のすべての人々は狩猟採集者だったが、そおのなかのある人たちは、やがて自分たちの手で食料生産をはじめた。それはなぜだろうか。紀元前8500年頃には、メソポタミアの肥沃三日月地帯で食料生産がはじまっていたが、気候的にも地形的にも似ているヨーロッパ西部では、その3000年後の紀元前5500年頃になるまでじはじまっていない。それはなぜだろうか。また、同じ地中海性気候のカリフォルニアやオーストラリア南西部、そして南アフリカのケープ地方では、食料生産が自発的にはじまることがなかった。それはなぜだろうか。紀元前8500年頃に食料生産をはじめたメソポタミアの肥沃三日月地帯にしても、なぜそれ以前に、たとえば紀元前1万8500年や2万8500年頃に食料生産をはじめなかったのだろうか。

食料生産への移行をうながしたもの

これまでの考察から明らかなように、農耕をはじめた人たちは、食物を得る方法がほかになかったために突然はじめたわけではない。狩猟採集生活と食料生産生活は、二者択一的に選ばれたわけではなく、食料獲得戦略のひとつとして、いくつかの生活様式のなかから選ばれたのである。食料採集と食料生産が併存する生活は、食料採集だけの生活や食料生産だけの生活と優劣な競い合う関係にあった。しかし、食料採集と生産が併存する生活様式のなかにもさまざまな様式があり、生産性の面で互いに競合していた。とはいえ、この1万年間に見られる大きな傾向は、狩猟採集生活から食料生産生活への移行である。したがって、つぎに問うべきは、狩猟採集生活から食料生産生活へと移行させた要因は何であったか、ということである。
この問題は、これまで考古学者や人類学者のあいだでいろいろ議論されてきているが、いまだ結論は出ていない。その理由のひとつは、人びとを狩猟採集生活から食料生産生活へと移行させた要因が世界的に同一ではなく、土地によって問題となる要因が異なるからだと思われる。もうひとつの理由は、何が原因で何が結果であったかの切りわけがむずかしいということである。しかしながらこの問題は、おもに5つの要因の相対的な重要性をめぐって議論されており、それらの要因がどういうものであったかは同定することができる。
その1つの要因は、この1万3000年のあいだに、入手可能な自然資源(とくに動物資源)が徐々に減少し、狩猟採集生活に必要な動植物の確保がしだいにむずかしくなったということである。第1章で見たように更新世の末期には、南北アメリカの大型哺乳類の大部分が絶滅してしまっている。ユーラシア大陸やアフリカ大陸でも、いくつかの種が絶滅している。この絶滅の原因を気候の変化に求める説もあれば、狩猟技術の向上と狩猟者の増加とする説もある。それまで獲得可能であった野生動物が絶滅したことが、古代のアメリカ大陸、ユーラシア大陸、そしてアフリカ大陸の人びとを、長い時間をかけて食料生産へと駆りたてていったとするのは議論の余地のあるところだが、比較的最近の時代に野生動物が絶滅してしまった島々で起こった変化を見ると、野生動物の絶滅と食料生産の開始に因果関係があることを示す例は多い。たとえば、ポリネシアからニュージーランドに渡った初期の移住民が食料生産に励みだしたのは、モア鳥を絶滅させ、アザラシの数を減少させ、ポリネシア諸島域の海鳥や陸生の鳥を絶滅または減少させたのちのことだった。西暦500年頃にイースター島に移り住んだポリネシア人は、野鳥やネズミイルカを食料として容易に入手できなくなった時点で初めて、移住の際に持ち込んでいた鶏を主食にくわえている。同じように、メソポタミアの肥沃三日月地帯の狩猟採集民が野性棒物を家畜化するようになったのは、野性のガゼルの数が減少し、肉の主要供給源を失ったからだという説がある。
食料生産への移行をうながした第2の要因は、獲物となる野生動物がいなくなり、狩猟採集がむずかしくなったまさにその時期に、栽培可能な野生種が増えたことで作物の栽培がより見返りのあるものになったことである。たとえば、更新世の終わりに気候が変化したため、肥沃三日月地帯では、短時間で大きな収穫が得られる野生の穀類の自生範囲が大幅に拡大した。肥沃三日月地帯では、まずこれらの野生種が徐々に栽培化される過程を経て、大麦や小麦が栽培されるようになったのである。
食料生産への移行をうながした第3の要因は、食料生産に必要な技術、つまり自然の実りを狩り入れ、加工し、貯蔵する技術がしだいに発達し、食料生産のノウハウとして蓄積されていったことである。
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食料生産への移行をうながした第4の要因は、人口密度の増加と食料生産の増加との関係である。考古学の調査においては、食料生産がおこなわれていた証拠が見つかると、その場所の人口が稠密化した証拠もかならず見つかる。そのような場所では、人口が稠密化したので食料を生産するようになったのか。それとも、食料を生産するようになったので人口が稠密化したのか。どちらが原因でどちらが結果であるかについては、長い間議論されてきているが、けっきょくは鶏が先か卵が先かといったたぐいの話である。
因果関係のつながりは、双方向にはたらき、原因が結果であり、結果が原因であるのが一般的である。すでに指摘したように、食料を生産しはじめると、狩猟採集よりも1エーカーあたりの産出カロリーを高めることができ、より多くの人口を養うことが可能となり、それが人口密度の増加へとつながる傾向にある。人口密度だけをとっても、更新世末期を通じて野生動物の採集加工技術が向上したおかげで、徐々にではあるが右肩上がりの傾向にあった。そして人口密度が上昇するにつれて、それに見合う食料を確保する手段として、食料の生産がますます加速されるようになったのである。
人びとが食料生産の生活様式へと移行していく過程で見られるのは、自己触媒と呼ばれる作用になぞらえることができる。自己触媒的過程においては、結果そのものがその過程の促進をさらに早める正のフィードバックとして作用する。人口密度の増加は、知らず知らずのうちに野生植物を栽培化する方向に歩みはじめた地域において自己触媒的に作用し、ますます人びとを食料生産に駆りたて、その結果、地域の人口密度はさらに増加したのである。やがて人びとが定住して食料を作りだすようになると、出産間隔が短くなり、その結果、より多くの子供が生まれ、より多くの食料が必要になった。食料生産と人口密度の増加の因果関係が双方向的に作用していることが、1エーカーあたりの産出カロリーの増加にもかかわらず、栄養状態においては農耕民のほうが狩猟採集民よりも劣っているという矛盾を解き明かしてくれる。この矛盾は、入手可能な食料の増加率より、人口増加率のほうがわずかばかり高かったことによって生じているのだ。
以上の4つの要因をを考察することで、メソポアミアの肥沃三日月地帯で食料生産が始まったのが紀元前8500年頃であって、なぜ紀元前1万8500年や2万8500年頃ではなかったのかが理解できるだろう。紀元前1万8500年や2万8500年頃のメソポタミアでは、狩猟可能な野生の哺乳類がまだたくさん生息していた。一方、野生の穀類はまだあまり豊富ではなかった。野生の穀類を効果的に収集、加工、貯蔵する技術も発明されていなかった。人口密度も、1エーカーあたりの産出カロリーを増加させなければならないほど高くなく、狩猟採集生活のほうが食料生産生活より見返りが多かったのである。