じじぃの「歴史・思想_170_銃・病原菌・鉄・アボリジニの生活様式」

Aboriginal Fish and Eel Traps

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=DUbj-PGzmyU

Aboriginal Fish and Eel Traps

Rethinking Indigenous Australia's agricultural past

Heather Builth is a consultant archaeologist whose work in the 1990s recognised the ingenuity of the Budj Bim eel traps that were used in the Lake Condah district of western Victoria.
https://www.abc.net.au/radionational/programs/archived/bushtelegraph/rethinking-indigenous-australias-agricultural-past/5452454

銃・病原菌・鉄: 1万3000年にわたる人類史の謎(下)、ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳、草思社(2000年)

【下巻目次】
第4部 世界に横たわる謎
第15章 オーストラリアとニューギニアのミステリー
オーストラリア大陸の特異性/オーストラリア大陸はなぜ発展しなかったのか/近くて遠いオーストラリアとニューギニアニューギニア高原での食料生産/金属器、文字、国家を持たなかったニューギニア/オーストラリア・アボリジニ生活様式/地理的孤立にともなう後退/トレス海峡をはさんだ文化の伝達/ヨーロッパ人はなぜニューギニアに定住できなかったか/白人はなぜオーストラリアに入植できたか/白人入植者が持ち込んだ最終産物
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20141209/1473579333

『銃・病原菌・鉄 (下)』

ジャレド・ダイアモンド/著、倉骨彰/訳 草思社 2000年発行

オーストラリアとニューギニアのミステリー より

オーストラリア・アボリジニ生活様式

オーストラリアでは、農業も家畜化も起らなかった。オーストラリアは、世界の大陸のなかでももっとも乾燥した大陸であるばかりでなく、土壌がもっとも不毛な大陸である。さらに、オーストラリアでは、他の大陸のように気候が季節が1年周期で変化しない。オーストラリアの気候は、エルニーニョ・南方振動(ENSO)(訳注 南太平洋にあるタヒチ島とオーストラリアの北部にあるダーウィンの気圧が振動する現象)の影響で、1年周期ではなく、数年周期で不規則に変化する。予測不能の厳しい旱魃が、予測不能の豪雨と洪水をはさんで、何年間かつづいたりするのだ。そのため、ユーラシア種の作物を栽培し、収穫物をトラックや列車で運搬するようになった現在でも、オーストラリアでの食料生産にはリスクがつきまとう。順調な気候がつづくあいだに何年かかけて育てた家畜を、旱魃で一度に失ってしまうこともある。もしも、アボリジニが農業を営んでいたら、この不順な天候によって同じ問題に直面していただろう。順調な気候がつづくあいだに村に定住し、作物を栽培し、子供を産み育て、集団の人口が増加したとしても、旱魃がめぐってくれば、集団の人口を養うだけの食料が確保できず、多くの人びとが飢え死にしてしまったことだろう。
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アボリジニたちは食料を生産することはなかったが、そのかわり、「火おこし棒農法」と呼ばれる方法を用いて、より多くの食料を狩猟採集できるようにしていた。彼らは、火おこし棒を火種に定期的に野火を放って草地や森林を焼き払い、土地の生産性を上げて農耕作業に従事しなくても食用植物や動物をより多く入手できるようにしていた。野火を放つことは、いくつかの目的にかなっていた。まず、火を放つと、飛び出してくる禽獣を簡単に捕まえ、食用にすることができる。草地や森林が焼き払われて、歩きやすくなる。焼け跡の草地は、オーストラリアではもっともよい獲物である、カンガルーの理想的な生息地となった。また、焼け跡にカンガルーの餌となる植物がよく育った。アボリジニたちが根の部分を食用としていたシダもよく育った。
われわれは、オーストラリア・アボリジニを砂漠の民と考えがちであるが、彼らの大半は砂漠の民ではないアボリジニの人口密度は、生活環境の降雨量の多少によって異なる(降雨量によって、野生植物や野生動物の餌の生育状況が異なるからである)。海、川、湖でとれる魚介類の多少によっても異なる。人口密度がもっとも高かったのは、オーストラリアでももっとも湿潤で、生産性が高い地域だった。つまり南東部のマレー・ダーリング河川水系地域、東部や北部の沿岸地域、最南端の地域などでくらしていたアボリジニたちであった。ちなみのこれらの地域は、現代でもヨーロッパから移住してきた人びとがもっとも多く暮らしているところである。われわれが、アボリジニを砂漠の民と思うのは、たんにヨーロッパ人たちが、望ましい地域に暮らしていたアボリジニたちを殺してしまったり、自分たちが望まない地域に追いやってしまったりしたからである。
生産性が高く、自然の恵みに恵まれていた地域では、過去5000年のあいだに、アボリジニたちが効率的に食料を採集できる方法をあみだし、人口密度が増加している。たとえば、東オーストラリアでは、豊富に自生している蘇鉄(そてつ)を利用する技術をアボリジニたちがあみだし、デンプン質も高いが毒性も強いその種子を灰汁(あく)抜きしたり発酵させたりして食用にしていた。また、彼らは夏になると、南東部にある高地に足をのばし、蘇鉄の種子やヤムイモだけでなく、冬眠中のボゴングという蛾を食料とするようになっている(この蛾は、焼くと焼き栗のような味がする)。アボリジニたちは、マレー・ダーリング河川水系で淡水ウナギ漁をおこなうようにもなっている。この地方では、季節ごとに降雨量が異なり、それに応じて沼地の水位が上下する。アボリジニたちは、複数の沼地をつなぐ、全長1.5マイルにおよぶ掘割を構築し、ウナギが沼地のあいだを自由に移動できるようにした。そして、掘割の終端を石造りにし、両岸をまたぐように網を張って、水位が下がった季節に、逃げ遅れて網にかかるウナギを捕まえて食用にしていた。

こうした「養殖池」は、構築するのにたいへんな労力を要した。

しかし、いったんできあがってしまうと、沢山の人間を養うことができた。19世紀にこうしたウナギ養殖場を訪れたヨーロッパ人は、周辺に10以上の住居があるのを目撃している。また、遺物が出土している集落の遺跡のなかには、最高146の石造りの家さえあったところさえある。この事実は、少なくとも季節によっては、そうした集落に数百人の人びとが住んでいたことを示唆している。