じじぃの「科学・芸術_87_島津氏と琉球王国」

島津氏と琉球王国
鳳凰網2013.5.9】人民日報:中国琉球の帰属について再議 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=KxnwKV_20lo

琉球王国

歴史秘話ヒストリア 「はるかなる琉球王国 〜南の島の失われた記憶〜」 2014年9月3日 NHK
【案内役】渡邊あゆみ
●エピソード1 生き残り大作戦
アジア各地の産物を集め、中国と貿易することで繁栄を築いた琉球王国。日本の戦国大名である薩摩島津家の侵攻を受け、窮地に陥る。日本と中国、二つの大国のあいだでの生き残りをかけた琉球王国の作戦とは?
●エピソード2 “したたか”外交で危機を乗り越えろ
日本が幕末の時代に入ろうとしていた頃、琉球には次々と欧米列強の船がやってきます。武器を持たない琉球は、外交交渉でなんとか外国勢力を遠ざけていました。しかし、そこへ来たのが、強力な艦隊を率いたアメリカのペリー提督。琉球王国とペリー、対決の行方やいかに−
●エピソード3 琉球を守れ!若者たちの奮闘
明治新政府が日本の政治を掌握した時、急いだのは国境の画定でした。琉球を日本に取り込む案、あるいは東アジア安定のためとして中国と分割する案…いずれも琉球王国存亡の危機!その時、立ち上がったのは琉球の若者たちです。彼らの奮闘の物語。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/212.html
『鹿児島県の歴史-県史』 原口泉・他/著 山川出版社 1999年発行
貿易大名島津氏 (一部抜粋しています)
沖縄・奄美地域は琉球国に属し、日本の他地域とは異なる歴史を歩んでいた。
沖縄本島では、12世紀ごろから按司あじ)とよばれる首長層が割拠し、グスク(城郭)をかまえて抗争を繰りかえしていたが(グスク時代)、14世紀にはそのなかから山北、中山、山南の3つの王朝が台頭し覇権を争うようになった(三山時代)。ところが、1406年には佐敷按司思紹・尚巴志父子が中山王武寧を攻め滅ぼして中山王位を簒奪。勢いに乗じた思紹・尚巴志は、1416年に山北を、1429年には山南を滅ぼして、はじめて統一国家を樹立させた。第一尚氏王朝である。しかしこの王朝は短命で、1470年に対外外交交易長官であった金丸がクーデターをおこすとあっけなく滅んだ。金丸は尚円と名乗って中山王位を継承し、その子孫が19世紀まで琉球王国を統治し続けたのである(第二尚氏王朝)。
さて思紹や金丸は、武力で打倒した前国王を父と称し、その世子といつわって明の冊封(さくほう)をうけ王位を継承している。これは、琉球に官営をもたらす進貢(しんこう)貿易を維持するための方便であった。
琉球の諸勢力のなかで最初に明の冊封体制のなかに組みこまれたのは、三山時代の中山であった。1372年、中山王察度がいち早く明に進貢して明皇帝から冊封をうけたのである。このため中山王=琉球国王という図式ができあがった。冊封をうけるということは、明という大帝国に従属することであるが、同時に琉球国王の正統性が明によって承認され、その保護下にはいることを意味していた。また経済的にも明皇帝が進貢品を上まわる回賜(かいし)を与えていたため莫大な利益をもたらした。
「明史」に記された琉球王国の進貢回数は171回に達し、2位の安南(ベトナム)の89回を大きく引きはなしている。これは明が琉球王国を南海産物を入手する窓口として位置づけ、進貢頻度を1年ないし2年1貢と他国より優遇していたからである。このため琉球には多量の中国製品が集まり、その多くは日本や朝鮮・東南アジアの国々に転売された。またそれらの国々の産物も、明へ進貢するためという大義名分のもと琉球に集められ、琉球王国はこうした中継貿易によって繁栄したものである。
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文明18年にはじまったと伝えられる島津氏と琉球王国との公的な交流は、琉球から薩摩に派遣された紋船による対等な善隣友好関係であった。永世5(1508)年、12代島津忠治は、琉球に島津氏が発行する印判状(琉球渡海朱印状)をもたない船とその積荷の没収を求め、日琉貿易の独占をはかっているが、その宛名は「琉球国王殿下」となっており、書札礼も対等な外交文書となっている。また、天文3(1534)年には、島津氏の老中が琉球三司官に、琉球征服を企てた備中の三宅和泉守国秀を、先年島津氏が討ちとったことを伝え、両国の友好関係の強化を訴えている。
両国の関係に変化のきざしがみえるのは16世紀のなかばのことで、まず三州統一をなしとげた16代島津義久が、強大な軍事力を背景にして琉球貿易の独占を強行にせまりはじめた。天正15(1587)年に義久をくだした豊臣秀吉はさらに強硬で、琉球を従属国とみなし、家臣の亀井茲矩琉球をあたえるという構想すら描いていた。この構想を知った義久が石田三成細川幽斎に働きかけたために実現はまぬがれたが、秀吉はその後も島津氏をつうじて琉球を入貢を促し、文禄元(1592)年には朝鮮出兵の軍役負担を命じた。
一方、琉球では、1567年に明が海禁令を廃止したことによって、経済基盤である中継貿易が打撃をうけていた。そのうえに日本側から一方的な要求をつきつけられ、琉球王府は対応にとまどった。日琉関係は悪化したが、朝鮮出兵が泥沼におちいり、さらに秀吉の死去やその後継者争いがあって豊臣政権は琉球への関心を弱め、さらに島津氏も朝鮮出兵関ヶ原の戦いにまきこまれたため、琉球問題は棚上げにされた状態となった。
しかし、慶長7(1602)年、徳川氏と島津氏の和議が成立すると、島津氏はふたたび琉球貿易独占に強い関心を示すようになり、18代島津家久琉球への武力介入をも検討しはじめた。慶長11年には奄美大島出兵が計画されたが、これは義久の同意が得られず、準備不足もあって取りやめとなった。また徳川家康は、琉球王府に明との国交回復の仲介を期待していたが、琉球側がこれにこたえようとしなかったため、家久に琉球出兵を許可した。
慶長14年、家久は琉球出兵にふみ切り、樺山久高を総大将、平田増宗を副将とする兵3000、船100艘が琉球に渡海した。戦いなれした島津分の前に琉球側は手も足もでず、またたくまに首里を占領され、尚寧王は島津軍の軍門にくだった。その結果、与論島以北の奄美群島は割譲されて島津氏の直轄地となった。そのほかの地域は従来どおり琉球王府によって支配されることになったが、貿易は薩摩藩の管理下におかれた。