『中国の歴史を知るための60章』
並木頼壽、杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行
冊封と朝貢 東アジア伝統の国際秩序 より
冊封の冊とは、爵位を授ける文書のことで、冊封とは冊を与えて封建することである。中国の皇帝は、中国の皇帝に止まらず全世界の皇帝であって、天から徳を以て全人類を導くべしとの店名を受けた天子(てんし)であった。そして皇帝の徳が直接おおう領域が中国=中華である。皇帝の徳が盛んなときは、それは遠くまで及び中華の領域は拡大するし、徳が衰えれば縮小する。周辺の夷狄(いてき)すなわち未開野蛮な住民は、中華の徳を慕って皇帝のもとに使いを送る。これに対して皇帝は夷狄の首長に王の爵位を授けて外臣とし、その地位を保障するとともに、彼らが中華に少しでも近づくよう励ます。
夷狄の主は、高低の恩徳に感謝し定期的に使いを使いを送って朝貢(ちょうこう)する。これが理念としての冊封体制である。冊封を受けた国は中華帝国の年号と暦を使用するものとされ、朝貢に当たっては皇帝に対し、挨拶文である「表」を上呈し方物(地方の産物)を献上した。もたらされた方物に対しては、皇帝はそれに倍する下賜品(回賜)を与えてみずからの徳を示すのをつねとした。王の代替わりには、皇帝の使いとして冊封使(さくほうし)が派遣され新たな王を任命するものとされた。また、中国の皇帝から冊封を受けた国が、さらにその周辺の国から朝貢を受けることもあった。
ふつう冊封は、前漢のはじめに現在の広東・湖南一帯に勢力をはっていた趙陀(ちょうだ)を南粤王(なんえつおう)に封じたあたりからはじまるとされているが、理念的には古く紀元前11世紀、周(しゅう)のはじめに周王が一族功臣を各地に諸侯として封じた封建制度にはじまるといえよう。そのあと、春秋・戦国と時代が進み、都市国家から領域国家へと国家形態がかわるにつれ、地方分権的な封建制から中央集権的な郡県制への転換が進んでいった。
天下統一をした秦(しん)は、すべてを郡県制によって統治する建前であったから、周辺国は征服するか無視するかであったが、その後を引き継いだ漢(かん)は、一部に封建を復活した郡国制をとった。このことより、南粤や衛氏朝鮮が外臣として冊封されることがはじまった。そのあと、この中華帝国を頂点とする朝貢と冊封による外交関係は、19世紀の末、日清戦争の下関条約によって、最後の朝貢国であった朝鮮王国を独立国とすることが謳(うた)われたことによって終焉を迎えるまで、程度の差はあれ一貫して存在しつづけた。冊封体制は、中華帝国と周辺国との主従関係であるが、これはゆるやかな関係であって、中国の皇帝が周辺国の内政に干渉することはほとんどなかった。無理難題となることがまったくなかったわけではないが、多くの場合、たとえば冊封を受けた国が朝貢を怠っても、それをことさら咎(とが)めだてすることもなかった。朝貢・冊封の具体的あり方は、時代により異なり、また同じ時代にあっても国によってさまざまであった。朝貢する側の主脇もさまざまであって、実情と理念とはおおいに異なった。
このようななかで、琉球王国はもっとも熱心に中華帝国へ朝貢を繰り返した国といえよう。琉球が統一王朝を形成するのは15世紀前半であるが、それより先1373年1月(明の洪武5年12月)に、中山国(ちゅうざんこく)が成立間もない明朝へ、最初の入貢をおこなっている。
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このように多大の出費と危険をともないながら、型どおりの朝貢・冊封が繰り返されたのはなぜであろうか。まず、明清両朝にとって琉球との関係は、冊封体制の理念を形のうえで示せる数少ない機会であった。冊封体制全体を維持して行くうえで、琉球との関係を型どうりつづけることは大きな意味があった。また、琉球にとっては対日関係上重要な意味があった。琉球は17世紀はじめ薩摩藩の侵攻を受けて以来、半ば江戸幕府の幕藩体制に組み込まれていたが、中華帝国から冊封使を迎えることは薩摩藩・幕府の圧力を軽減するのに役立った。つぎに、貿易の利益があった。明清両朝ともに内陸王朝としての性格が強く、貿易の利益より沿岸の警備に重点を置き、ときには海禁政策を採るなどし、海外貿易に対しては制限を設けて政府の管理下に置いていた。そのため朝貢・冊封そのほか使節の往来は、数少ない貿易の機会となった。使節団がときに数百人に膨れ上がった原因のひとつは、商人が紛れ込んでことによる。使節の往来のたびに、市場が設けられて多くの商品が取引された。使節の船は事実上貿易船であった。