じじぃの「科学・芸術_761_新羅・反日の原点」

白村江の戦い (663年)

『朝鮮属国史 中国が支配した2000年』

宇山卓栄/著 扶桑社新書 2018年発行

なぜ、朝鮮は中国従属の道を歩んだのか? 隋~唐、三国時代新羅 より

隋の降伏要求に、新羅百済は従いますが、高句麗は拒否しました。
しかし、隋の強大な力をもってしても、高句麗を屈服させることはできませんでした。なぜでしょうか?
高句麗遠征失敗の主な原因として巨大な軍隊を養える充分な兵站(へいたん)線を確保できなかったことが挙げられます。隋の煬帝(ようだい)は物資輸送用に永済渠(えいせいきょ)という運河を建設しました。これは洛陽から現在の北京に至る北上の輸送ルートでしたが、この運河を使っても補給が間に合わなかったのです。遠征軍の規模が大きすぎ、長距離にわたる細々として兵站線では支え切れませんでした。
また、隋は中国を統一したとはいえ、不満を持つ地方豪族が多くおり、兵士も隋のために率先して戦いませんでした。
乙支文徳(ウルチムンドク)のような高句麗の名将の活躍もありました。「ウルチ・フリーダム・ガーディン(UFG)」と呼ばれる米韓合同演習は乙支文徳の名から取られたものです。
隋では、運河建設の労役や高句麗遠征の兵役に苦しめられた民衆の不満が爆発し、反乱が勃発します。煬帝は殺され、隋は滅亡しました。
唐の太宗も煬帝に続き、644年、高句麗遠征に向かいます。隋の50万~60万の大軍への補給が間に合わなかった反省もあり、太宗は約10万の軍で侵攻しました。しかし、この兵力は約15万の高句麗軍と戦うには少なすぎました。太宗は高句麗の力を侮(あなど)っていたようです。
高句麗の名将、淵蓋蘇文や楊萬春の活躍で、唐は撃退されます。また、この頃、北方のトルコ人の鉄勒が隙を突いて、唐に侵攻しています。高句麗は鉄勒や突厥などのトルコ人勢力と気脈を通じていました。
唐はこれ以降、新羅と手を組んで、高句麗やその同盟国の百済を攻撃する戦略を立てます。
新羅百済高句麗連合に領土を奪われ、敵対していました。また、日本も百済を支援し、百済に圧力をかけていました。新羅は外交的に孤立し、存亡の危機に立たされていたのです。
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新羅は、戦争中も唐と朝貢という臣従関係を維持していました。朝貢とは、中国周辺の諸民族の統治者が、その統治権を中国に認めさせてもらうために、使節を送り、財物や奴隷などを貢ぎ物として差し出す臣下の礼のことをいいます。中国は、その見返りとして、王号や官職を冊封(授与)します。
しかし、朝貢の意味は幅広く、従属を強いる場合から、単に通商・交流を行う場合まで様々なケースがあります。日本も唐に朝貢していましたが、交流していたにすぎません。
「中国を中心とする朝貢体制が東アジアの秩序を司っていた」という解説がなされていますが、朝貢そのものにそんな大袈裟な意味はありません。
いずれにしても、新羅朝貢は唐への従属と捉えられます。新羅は唐と戦争しながらも、唐の年号を使い続けていました。
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新羅は唐の従属国でしたが、後の時代の、元王朝に支配された高麗や、明・清王朝に支配された李氏朝鮮のような中国の隷属国ではありません。未だ、新羅は従属国の範囲に止まっていたと言えます。新羅は唐軍を朝鮮から排除することができたからです。
高麗や李氏朝鮮は中国に主権を全く奪われ、もはや国ですらなく、中国の属邦に成り下がっていきます。
しかし、新羅も一歩間違えれば、隷属国になっていました。チベット突厥などの異民族勢力が唐と戦っていたからこそ、新羅は唐を排除できたのであり、たまたま幸運が重なったというだけのことに過ぎません。
●過酷な運命の淵源
新羅の王たちが唐に媚びへつらい、唐を必要としたのは、国内の勢力基盤を固められず、唐の権威を利用して、国内有力者を抑え込むためでした。新羅王は唐に認められることで、その支配の正当性を確保しました。
また、日本が663年の白村江の戦い以降、朝鮮支配の復権を狙っており、新羅は日本を牽制するためにも、唐に従属しなければなりませんでした。
新羅は日本に対等な関係を要求しましたが、日本は拒否しています。『続日本紀』によれば、唐の都の長安で、753年に開催された朝貢で、遣唐使大伴古麻呂新羅の使者と席次を巡り、争いました。新羅は日本の朝貢国であるので、席を下位に置くよう、唐に要求し、唐はこれを受け入れました。
755年、唐で安史の乱が起き、唐が弱体化したことを好機に、藤原仲麻呂新羅征伐の準備を行います。しかし、これは朝廷内の政争で実行されませんでした。

新羅にとって、日本に屈服するくらいならば、唐に屈服した方が良いという奇妙なプライドがありました。中国に屈服することは恥辱ではないという朝鮮人独特の感覚の原点が新羅時代からはじまっていると言えます。

新羅は元々、弱小国でしたが、高句麗百済を中国に売り渡し、裏切りによって、朝鮮の支配者となった国です。弱小ゆえに、無理が祟(たた)り、国内外の様々な問題に自力で対処できず、中国にすがり付かざるを得ない状況に陥りました。
中国従属への道を開いた新羅の罪こそが、後の時代へと繋がる朝鮮人の過酷な運命を決定づけたのです。彼らは他国を恨む前に、自分たちの父祖を恨むべきでしょう。