じじぃの「歴史・思想_137_韓国・堕落の歴史・新羅による朝鮮半島の統一」

『神野の世界史劇場』付属CD全公開!(042 / 106) 白村江の戦と高句麗滅亡と新羅統一

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韓国 堕落の2000年史―日本に大差をつけられた理由 (祥伝社黄金文庫)

読書メーター
新羅による朝鮮半島統一、李朝の成立、この2つが韓民族の民族性を歪めた。文化先進国であった高句麗から進んで中国の属国に成り下がった大罪。
慕華思想、小中華を誇る。李成桂、1392年に李朝を創建、中国社会の悪いところ全て移入。朱子学、美辞麗句を並べる空論、韓国の平地に寺がない理由。李朝500年と徳川300年の違い。江戸時代の日本ほど庶民が豊かで文化的な生活を享受した国は世界にない。李朝では王家の間で殺戮劇が繰り返された。女性は半奴隷。政権が変わると政策真反対。明に防衛を委ね、他力本願の属国根性。今の日本は?

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『韓国 堕落の2000年史』

崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行

”韓国病”はどこから始まったか?――かつての高徳の民を退廃に導いた痛恨の出来事 より

「紳士の国」として知られた韓国

2001年に加耶文化研究所の学術会議が開かれた日は、空が晴れあがって爽(さわ)やかだった。6月のこのあたりは、萌えたつような緑が眩(まぶ)しく、もっとも快い季節である。私はかつての伽耶の都のあたりを散策しながら、韓日関係と、新羅百済高句麗による三国時代以後の韓国の悲しい歴史について思いを巡らせた。
当時の韓国は3つの国に分かれていたが、その時代までは、国際的に高貴な「紳士の国」として知られていた。「紳士」は日本では明治以後に英語の「ジェントルマン」の訳語として定着するようになったが、もっと古い言葉である。「紳」は貴人が衣冠束帯の時に用いる大帯であって、ここに笏(しやく)をはさむことから、高い人格と教養を持った男子を意味した。
三国時代以前の韓国は、中国古代の地理書である『山海経(せんがいきょう)』や、中国の前漢の文学者である東方朔(生没不明)による書物や『三国志魏志東夷伝』などに現れるが、「仁と義」、「礼、勇、寛大」、「博愛と禁欲的な廉潔」、「自尊、武勇、快活」さに溢(あふ)れた国として描かれている。

なぜ、新羅による統一が問題なのか?

だが、これほど高い徳と輝かしい文化を誇った朝鮮半島三国時代は、1つの予期せざる大事件によって終止符を打った。新羅による朝鮮半島の統一である。
同じ民族によって統一がなったのだから、一見問題ないように見えるかもかもしれないが、新羅の場合は事情が違う。
新羅による統一は、外勢である唐と結託して、同胞の国であり、当時、アジアの強国であった高句麗と、世界の最高級の文化と芸術の国であった百済を不意打ちすることによって滅亡させたものだった(百済が660年、高句麗が668年)。民族反逆の末に、自らを唐の属国としてしまった。ここに韓国人の意識構造に、異常を招く事態となった。
新羅は進んで唐の属国となることによって、卑怯、利己主義、機会主義、事大主義を蔓延(はびこ)らせ、韓民族を転落させたのだった。
これは朝鮮半島に禍根(かこん)を永久に残すことになった大事件であるが、今日の表現を用いてみれば”無頼漢(ゴロツキ連中)”が多民族の勢いを借りて、自分たちの民族国家を打倒したのだった。
もっとも、このような見方をするのは、私だけではない。かつて李光洙(イクァンス)が同じことを唱えた。李光洙は天才的な文芸家で、長編小説『無常』によって近代韓国文学の祖といわれているが、1892年に平安北道で生まれ、日本の早稲田大学に留学した。強烈なナショナリストであり、1919年に三・一独立運動の推進者の一人として、日本留学生による独立宣言を起草した。

いまも残る中国に対する事大主義

「統一新羅」という言葉は美しく響くが、先にも述べたとおり、新羅は、当時の東洋の模範的な国家であった高句麗百済を、外国である唐の軍を引き入れて、不意打ちによって倒した。

百済が660年に滅びた後、日本の大和朝廷が4万人の陸海軍を朝鮮半島に派兵して、「白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)」を戦ったことが『日本書紀』に詳細に記されている。そして668年に新羅・唐連合軍が、高句麗を滅ぼした。

当時、高句麗の版図(はんと)は、今日の北朝鮮から満州・シベリア沿海州にまで及んでいたが、新羅満州からシベリア沿海州にわたる領土を放棄して、「国土統一」を成就させたのだった。
韓国古代史は統一新羅を美辞麗句をもって謳歌しているが、新羅が自らを「大唐国新羅郡」と卑下(ひげ)して読んだことを記録している。このような環境のもとで、国を失った高句麗百済の遺民の心境は、その後、卑屈におち、紳士どころではいられなかった。その結果、中国に対する”事大思想”は、今日でも、いまだに韓国で幅をきかせている。

進んで中国の属国になり下がった新羅李氏朝鮮の大罪

韓族はこのように旺盛な活力を持っていたのに、新羅による統一を機として衰退しはじめた。仁・義・礼・勇が充溢した独立自尊・高徳の国は、民族の裏切り者によって、かつて敵であった隣国の属領になり下がったのである。
そのことが何を意味するかというと、中国は今日に至るまで、どの時代をとっても孔子をも絶望させたように、社会がつねに腐敗していたが、この深い泥沼のような中国文化に組み込まれてしまったことが、韓民族に最大の不幸をもたらしたのである。
新羅は中国の属国となることによって、唐の元号を用いるかたわら、名前や、服装を唐風に改めた。韓人の姓は、三国時代までは二字姓だったが、創氏改名が強(し)いられ、一字姓となった。
またくわしくは後の章で述べるが、民族の衰退を加速させた2番目の要因は、李氏朝鮮の成立(1392-1910年)であった。