じじぃの「歴史・思想_140_韓国・堕落の歴史・高麗王朝」

高麗王

ウィキペディアWikipedia) より
高麗王(こうらいおう)は、高麗(918年 - 1392年)の国王で、姓は王氏。
王建が高麗を建国したが、第23代高宗の1258年に元朝に服属した。
後の第25代忠烈王の1287年からは高麗王は征東行省達魯花赤を兼ね、元朝の属国となったが、恭愍王時代の1356年に元朝の衰退とともに元朝を離れ、明に服属した。13世紀から14世紀までは元朝の中央官庁「中書省」の出先機関である「行中書省」の1つであり、征東行中書省が正式名称である。元朝の滅亡までこれは続き、高句麗との混淆を避けるために、中国では王氏高麗と呼んでいる。なお、元朝服属時代の第23代から第30代国王の諡号には元朝の忠臣を示す「忠」が付けられている。

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『韓国 堕落の2000年史』

崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行

”韓国病”はどこから始まったか?――かつての高徳の民を退廃に導いた痛恨の出来事 より

いまも残る中国に対する事大主義

「統一新羅」という言葉は美しく響くが、先にも述べたとおり、新羅は、当時の東洋の模範的な国家であった高句麗百済を、外国である唐の軍を引き入れて、不意打ちによって倒した。
百済が660年に滅びた後、日本の大和朝廷が4万人の陸海軍を朝鮮半島に派兵して、「白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)」を戦ったことが『日本書紀』に詳細に記されている。そして668年に新羅・唐連合軍が、高句麗を滅ぼした。
当時、高句麗の版図(はんと)は、今日の北朝鮮から満州・シベリア沿海州にまで及んでいたが、新羅満州からシベリア沿海州にわたる領土を放棄して、「国土統一」を成就させたのだった。

悲劇の誕生李朝成立――何が日韓両国の歴史の明暗を分けたのか? より

民族の心を復興した高麗(こうらい)王朝の繁栄

自ら唐の臣下になり下がることによって、背後から百済高句麗を攻め滅ぼした新羅は、9世紀に入ると、中央の権力が弱体化して国内が乱れ、地方で豪族が割拠(かつきょ)するようになった。そして936年に高麗朝と交代した。
高麗朝はナショナリズムを甦(よみがえ)らせ、高句麗百済の精神的な再興を企て、再び韓民族の誇りを取り戻させた。仏教文化が興隆し、1章で紹介した海印寺の「八方大蔵経」の版木も、この時代の文化の所産だった。
だが、13世紀に入って、モンゴルがアジア大陸において勢力を大きく伸ばすようになると、高麗は、この世界帝国への対応に追われることになった。1206年にチンギス・ハン(成吉思汗)がモンゴル諸族を統合し、モンゴル遊牧帝国の創健者となると、1231年には、高麗へ第一次侵攻を行なった。
その後、チンギス・ハーンの末子の子であり、第5代皇帝のフビライ・ハンが中国の統一を成し遂げ、1271年に中国の伝統を受け継ぐ正統王朝として、元朝を樹立した。そして、その後、1世紀にわたるモンゴル人による漢人支配が始まった。
高麗は23代の高宗(コジョン)のもとで、モンゴル軍の第一次侵攻を蒙(こうむ)ると、いったんは講和を結んだが、抗戦を決意して、都を開京(ケギョン)から、その西方にある江華島へ移した。開京は現在の北朝鮮の南西部にある開城(ケソン)である。
モンゴル軍は江華島を攻めあぐねた。しかし、24代の元宗(ウオンジョン)が講和の道を選んで、モンゴルから侵略しないという約束を取りつけ、1270年にモンゴルの要求にしたがって、開京に遷都した。同時に精鋭軍の解散を命じたことから、事態が急変した。

モンゴルの日本侵攻を7年遅らせた高麗の抵抗

高麗朝には、一般国務から独立した総帥権によって動く「三別抄」が存在した。「別抄」は勇士によって組織された選抜軍を意味したが、最初は盗難を取り締まるためにつくられた「夜別抄」から始まった・この組織がしだいに拡大したことから「左別抄」「右別抄」の2つに分けられた。そして、モンゴル軍に捕えられて脱出した捕虜から「神義軍」が組織され、左、右、神義の3軍を三別抄と呼ぶようになった。
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モンゴルにとって珍島の三別抄を討つことが緊要の課題となった。5月15日に、本来は日本遠征のために準備したモンゴル軍と高麗政府連合軍が、屯田経略司長官のモンゴル人将軍の忻都(きんと)に率いられて、珍島を後略した。そこで王として擁立されていた温(オン)を殺し、1万余人の男女を捕虜にした。
こうして日本遠征の障害がいちおう取除かれたので、使節の趙良弼が日本へ向けて出発した。
珍島が陥落したものの、残った三別抄が金通精を首領にして、本拠を耽羅に移し、再び猛烈な活動を展開した。そして全羅・慶尚南北道から、京畿道までも出撃して、南部の穀倉地帯を占拠して、制海権を握った。そのためモンゴルは日本遠征のための航路と食糧を確保するために耽羅を攻撃した。
1273年4月、モンゴル・高麗政府連合軍が耽羅へ攻め込んだ。激戦の末に、三別抄も衆寡(しゅうか)敵せず、ついに敗れた。三別抄による江華島の蜂起から、3年が経過していた。
モンゴルは三別抄がこのように勇戦したために、1266年から計画した日本遠征を、およそ7年にわたって延期せざるをえなかった。この間に、日本は北九州沿岸の防備を準備する、時間的な余裕を与えられた。
さらにモンゴルは、日本遠征のために準備した軍隊を、三別抄の鎮圧に差し向けたことによって多くの兵員や艦船を失い、莫大な損失を蒙(こうむ)った。
もしも、1回目の元冠が7年前に行なわれていたとしたら、日本はモンゴルの支配のもとに置かれる悲運に見舞われたかもしれない。そうすれぱ、今日の日本もなかったかもしれないのである。この事実は、日本の歴史に記されてもよいのではないだろうか。