5世紀頃の朝鮮半島
5~6世紀 伽耶古墳群
高句麗 世界史の窓
●三国時代の高句麗
高句麗によって楽浪郡・帯方郡が滅んだことは漢民族による朝鮮半島直接支配が終わったことを意味し、半島南部の韓民族も自立の動きを早めることとなり、馬韓は百済が、辰韓は新羅が統一し、4世紀後半からの朝鮮半島は三国時代へと移行した。
三国時代には、高句麗の南下は主に百済に向けられ、百済は対抗上、中国の南朝や倭国(日本)とも結んだ。一方、新羅とは比較的友好関係を保ちながら、勢力を南下させていった。
『韓国 堕落の2000年史』
崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行
”韓国病”はどこから始まったか?――かつての高徳の民を退廃に導いた痛恨の出来事 より
高天原(たかまがはら)は韓国南部にあったという説
日本の建国神話の中心である「高天原(たかまがはら)」の故地が、従来言われてきた宮崎県の高千穂ではなく、韓国東南部、慶尚北道高霊郡の高霊だった――こんな驚くべき学説が出され、日韓両国の学界から、注目を集めている。
加耶(かや)大学に付属する加耶文化研究所の主催によって、3年前、はじめて学術研究会が催され、そのときに両国の学者が当地に集まり、「高天原故地」の石碑の除幕式も、行なわれた。
そして2001年にも加耶文化研究所が、韓日両国の歴史学者を高霊市に集めて、「高天原」の故地が、ここ高霊にあったとする説を検証する学術研究会が行なわれた。
そもそも高霊は、古代の大加耶(おおかや)の首都があった土地である。大加耶は任那加羅の前身である弥鳥邪馬国(みおやまと)であり、『日本書紀』によって意富加羅国(おおからこく)と記されているが、紀元前から5世紀にかけて鉄文化を発達させた。
今年の研究会には、日本から馬淵和夫筑波大名誉教授、歴史研究家の寺本克之氏、加藤瑛二名城大学教授をはじめ40人、韓国側から李慶熙加耶大総長、李鐘恒国民大前学長や、地元の郷土史学者などが参加して開催された。
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同祖同根だった日韓両国民
この説によれば、ここ高霊から、皇族である「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」一行が海を渡って、倭国に政権を打ち立てたことになる。日本から見れば、この地こそ古里であり、母国に当たるということになる。
任那加羅(ニムナカラ)、すなわち「任那(みまな)」の「任(イム)」は、韓国語で主人、あるいは母を意味しているから、「母の国」あるいは「主人の国」という意味になる。
今日では韓国では、目上に宛てて手紙を書くときには、「様」のかわりに「任」を用いる。
加藤教授は「今日まで高天原の故地は、九州の高千穂であると信じられてきたが、李総長がここ大加耶であることを突き止められたことに敬意を表すとともに、日本の歴史の故郷が、ここ高霊加羅(タカマガハラ)にあると認める。日本人の故地、加羅にあることも広く知らせたい」と述べた。
もし、この説が実証されれば、日韓両民族はかなりの確率で同祖同根ということになる。この説は、日韓両族が同じウラル・アルタイ人種であって、生まれた時に尻に蒙古斑点が見られることによっても、裏づけられる。
「伽耶」は朝鮮半島南部にあり、高霊伽羅(任那伽耶または意富伽耶)をはじめ、「六伽耶」と呼ばれる6つの国に分かれていた。
しかし、新羅によって、532年に金官伽耶が532年に高霊伽耶が征服され、残った小さな4つの伽耶諸国も、次々と新羅の支配下に入った。こうして朝鮮半島の歴史は、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)による三国時代へと移行していった。
李慶熙総長によれば、「伊奘諾尊、伊奘冉尊(いざなみのみこと)、天照大神、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」の諸神が、九州地方に渡ったという形跡はまったくなく、現在でも高霊にある高天原に居住していて、渡ったのは「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」と天孫である「瓊瓊杵尊」らだったという。
そして『日本書紀』に天孫が降臨したとされる「櫛触峯(くしふるたけ)」と「櫛日二上峯(くしひのわたかみだけ)」の「くしふる」が伽耶の地にある「亀旨峰」のことであり(『古事記』では、「久土布多気」と表記)、「添山此云 曽褒里能耶麻(そほりのやま)
」が新羅の王都「徐伐(ノボル)」(現在のソウルの語源)であると、推測している。
馬淵教授は、百済、伽耶から発した「天孫民族が精強な武器を用いることによって日本国中を征服して、大和朝廷を建てた」と発表した。
高霊は大邱(テグ)から西南へ、34キロ行ったところにある。高霊地方は伽耶山国立公園として知られている伽耶山麓の一帯の地域を指すが、ここに大伽耶の首都があった。
伽耶山には海印寺があるが、高麗時代の「八万大蔵経(はちまんだいぞうきょう)」(別名「高麗大蔵経」)という、膨大な量の木板(印刷のための版木)を所蔵していることによって知られている・この「八万大蔵経」は、韓国の代表的な文化遺産の1つである。