じじぃの「神話伝説_88_大駕洛国(朝鮮・任那)」

【日韓関係】任那日本府説への反発、内政干渉の代償は?[桜H27/4/10] 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=pE2V_4HCbwc
加羅 (かって日本領 任那?)

「古代史でも日本が歪曲」韓国首相、中学校教科書の「任那(みまな)日本府」記述を批判 2015.4.9 産経ニュース
任那日本書紀にも登場し、4〜6世紀に朝鮮半島南部にあり、倭(大和朝廷)の勢力圏だったとされる。中国吉林省にある好太王(広開土王)の碑文にも倭とともに任那の存在をうかがわせる文字がある。
旧日本軍による好太王碑文の“改竄説”があり、日本では一時期、任那存在説は後退。しかし、2006年に中国社会科学院の研究者の発表により、改竄説は否定された。
このため、日本では最近任那存在説が強くなっているのだが、韓国では06年以前の日本の専門家による「根拠がない」との説などを持ち出し、否定を継続。今回はこれに首相まで乗り出した形だ。
http://www.sankei.com/world/news/150409/wor1504090037-n1.html
伽耶 ウィキペディアWikipedia)より
伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。また加羅諸国は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。
1145年の記録によると『三国史記新羅本紀の奈解尼師今6年(202年)条に「伽耶」という表記があるが、『三国史記』同14年(210年)条には「加羅」と表記されている。
【概要】
三国史記』『三国遺事』などの文献史料は、3世紀までは加羅諸国の神話・伝承を伝えるに過ぎないが、農耕生産の普及と支石墓を持った社会形態などの考古学資料からの推定により紀元前1世紀頃に部族集団が形成されたと推測されてきている。
加羅と関係の深い任那諸国は6世紀になると百済新羅の侵略を受け、西側諸国は百済へ倭から割譲或いは武力併合され、東側の諸国は新羅により滅ぼされていった。512年に4県を倭が百済へ割譲し、532年には南部の金官国駕洛国)が新羅に滅ぼされ、また562年には洛東江流域の伽耶諸国を新羅が滅ぼした。

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『世界神話伝説大系 12 朝鮮の神話伝説』  中村亮平/編 名著普及会 1929年発行
大駕洛の建国 (一部抜粋しています)
昔、朝鮮半島の南の方に洛東江が静かに流れている辺りには、ぼつぼつ人も住んでいましたが、まだ定まった国もなく、ただ9人の酋長があって仲よく暮らしていました。
9人の酋長を九干(きゅうかん)といって、それらの家系のうちに7万5千人からの人が住まっていました。それでいて家の数は100戸位のものでありました。その頃の家は1戸といってもなかなか家族がたいへんで、1戸に780人も数えることの出来るような大家内もありました。何しろその頃のことですから、子孫が殖(ふ)えるに従って1つの部落をなしてだんだん繁栄して行ったのでありました。
九干の人たちは何1つ不自由とも思わず、実に平和に楽しく暮らしていますと、あるとき、鏡のように静まりかえった湖に、大きな石でも投げ込んだようなたいへんなことが起こったのであります。
それは中国の後漢の世祖光武帝建武18年、壬寅(じんいん)3月のことであります。ある日のこと、洛東江下流の金海の近くにある亀旨峰(きしほう)という小山の峰から、何物かの声が響き渡りました。天から降ったのか、地から湧いたのか、
「誰かいないか、誰かいないか」
というような崇高な声が聞こて来たのであります。付近の人たちが皆聞きつけて集まりますと、
「その方たちは何者であるか」
とはっきり聞えますので
「私たちは九干と申す者でございます」
と答えますと、
「いったいここは何と申す所か」
「ここは亀旨と申す峰でございます」
二言、三言、言葉を交わしていますと、
「この方は、皇天の命を帯びてここに降った者であるぞ、暫くこの方の言葉を聞かれよ。そち達はこの峰を掘り開いて、土を撮(つま)んで踏舞(とうふ)をするがよい」
そういった終りの言葉が響き渡ると、それなりに不思議な声は消えてしまいました。また元の亀旨峰となって梢をわたるそよ風は、楽しそうに枝から枝を伝ってあるいていました。
九干たちはその言葉を聞くと、これは何かの験(しるし)であるというので、よりより相談していろんなお供えしたり、神様を祀ったりして、親しくお祭をしました。
皆はその峰に集まってよろこびさざめきながら、大地を踏みならして舞を舞ったり踊り回りました。
すると実に不思議にも、天のかなたから何物かが垂れ下がって来たのであります。皆はこの意外な出来事に驚いて、もう踊り狂うのもやめて、呆気にとられてただ仰いで見守るばかりでした。だんだん垂れて来るのを見ると、それは紫の縄でありました。間もなく地面まで届きましたので大騒ぎをして集まって見ますと、紅の巾(きれ)に包まれた物が結(いわ)いつけてありました。
その包みを解いてみますと、中からは実に利kツぱな合子(ごうし)が出て参りました。
こんな中に合子が入っているとは、と思って九干たちは蓋を開けてみますと、いよいよ不思議な卵が現れ出ました。まるでまばゆくて見ていることも出来ないような、お陽様のように光り輝く黄金の卵が6つも入っていたのであります。
皆はただ驚喜するばかりで、誰から始めたともなく共にひざまずいて、礼拝しない者はありませんでした。そこで、その卵を大切に我刀干(がとうかん)の家に持ち帰って、楊上(とうじょう)に安置しました。我刀干というのは九干の1人なのであります。
翌日未明に起きて、皆で再び合子を開けてみますと、またしても不思議や、6つの卵はもうちゃんと孵化して、愛らしい、逞(たくま)しい童子となっていました。そして、その一人一人の童子は、実に偉大な相貌(そうぼう)をしていました。
九干の人たちはこの天来の出来事に、喜びに満たされない者とてはありませんでした。
そして、ただただ恭(うやうや)しく拝賀をするばかりでありました。
それから十幾日もたたないうちに、6人の童子は見上げるような立派な人になってしまいました。身の丈(たけ)は9尺もありましょうか。その輝かしい眼光、いきいきした眉、本当に龍顔(りゅうがん)ともいうような偉大な相貌を表しているのでした。
九干の人たちは、この神来の6王子を戴いて国をはじめることになりました。その月の15日に荘厳な式を挙げて、国の名も「大駕洛(だいから)」と称えることになりました。また伽耶国(かやこく)ともいいました。
6人の王子たちがみなそれぞれ分かれて国を治めましたので、六伽耶と呼ばれたこともありました。
九干の人たちが各々自分の住んでいた所に帰って、王様として戴いたのであります。
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『三国遺事』に伝えられているところによりますと、大駕洛国の主国を「金官加羅」といって、いまの金海に定め、その次は「阿羅伽耶」といっていまの咸安に都し、次は「古寧伽耶」といっていまの咸寧に、そして後に咸晶に、その次の「大伽耶」は高霊に、「星山伽耶」は星州に、最後の「小伽耶」は固城に、いずれも九干の人たちの一部を治めたのであります。
この慶尚南北道にわたっての大駕洛国を、日本の国では、古く総称して「任那(みまな)の国」といったのであります。