じじぃの「歴史・思想_136_韓国・堕落の歴史・日本に渡った韓民族」

古代朝鮮と多元的外交展開か「渡来人いずこより」展

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5g6xHK7uIGU

538年には、百済から仏教が伝わります

渡来人

5世紀ごろ、朝鮮半島から渡来人とよばれるすぐれた技術者が日本にやってきて、漢字や須恵器(すえき)を伝えます。
http://yayoigaoka-seminar.com/juniorschool/syakai/rekisi/16kuniguni-kohun/toraijin.html

『韓国 堕落の2000年史』

崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行

”韓国病”はどこから始まったか?――かつての高徳の民を退廃に導いた痛恨の出来事 より

続々と日本に渡った韓民族をしのばせる遺品

高霊は、現在では人口10万人で、農業を主な地場産業としているが、意富伽耶(おおかや)の王宮跡の復元工事が進んでおり、大邱から馬山まで結ぶ邱馬高速道路を使えば、大邱から35分ほどの距離にすぎない。
古事記』と『日本書紀』は日本の最古の歴史書であるが、韓国南部にあった伽耶の国の王子たちが、当時、韓国よりも肥沃な九州地方へ向けて、先を争って船で旅立っていったことを記録している。玄界灘の波を越えて着いたのが、博多地方であった。
『宗像(むなかた)神社の縁起』(『日本書紀』神代上)によれば、天照大神は自ら産んだ三柱の女神の湍津姫神(たぎつひめのかみ)を玄界灘にある沖島(おきのしま)にある沖津宮へ、市杵島姫(いちきしまひめのかみ)を筑紫の宗像郡大島村の大島にある中津宮へ、田心姫(たごりひめのかみ)を、宗像郡玄海町田島の宗像の辺津宮(へつのみや)に住まわせた。
三柱の女神はそれぞれ任務を与えられたが、天孫降臨の経緯として「三女神を筑紫洲に天降らせて、三ヵ所の神社におくり、『汝三神(いましみはしらのかみ)宜しく道中に降居して、天孫を助け奉り、天孫に祭れよ』と命じた」と書かれている。
今回の説によれば、天孫とは、伽耶から玄界灘を渡って、九州地方に着いた王族や、官僚たちのことになる。
当時の日本に築かれた古墳が、韓国の古墳の形と似ており、副葬品としてやはり酷似した舟の埴輪(はにわ)などが多く出土するのも、古墳時代から伽耶族と百済族が舟で波浪を乗り切る猛犬をしながら、九州地方へ渡ったことを偲(しの)ばせる。これらの埴輪や、銅矛(どうほこ)、銅鏡、石製紡錘車、石鏃(いしやじり)は、時には一度に数万人を数える多人数をもって、九州へ向けて海原を渡った人々の名残をとどめている。
一時に数万人が渡ったというと、人数が多すぎると訝(いぶか)るかもしれない。しかし、大和朝廷が7世紀後半に百済を救うために出兵した時には、4万人を送っている。たとえ人数に誇張があり、事実はその半分だったとしても、数万人が、一時に海を渡ったことになる。
2000年6月に、兵庫県日本海側の出石町の遺跡から、15隻の丸木舟の船団の姿を線刻した板が発見されたが、この町には新羅の王子の天日槍(あめのひぼこ)の渡来伝説が残っている。耳を澄ませると、船を操る人々の掛け声が聴こえてくるようだ。

日本の文字文化に貢献した王仁(わに)とその一族

当時の朝鮮半島は、どのような状況にあったのだろうか? 百済(前史時代を含めて紀元前42年から紀元660年)は古代世界において、他に類例を見ないほど高い文化水準を保っていた。
日本では4世紀末期に応神(おうじん)天皇の治世に、百済王が学者であった阿直岐(あちき)を派遣して馬2頭を天皇に貢上した。阿直岐は経典に通じていたため、皇太子であった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師となった。
この阿直岐が自分より優れているといって推挙したために、百済から王仁(わに)が来日した。この時に、王仁は『論語』(10巻)と『千字文』(1巻)を伝えた。王仁は冶工(やこう)、醸造人、呉服師をつれて来朝したが、”文の首(ふみのおびと)”と仰がれ、日本に文字が普及するきっかけをつくった。
日本書紀』によれば、当時の大和朝廷では、百済語が話されていた。百済語が日本語の源流であり、記紀万葉集百済語で書かれていたという説すらあるぐらいである。これは帝政ロシアの宮廷において、フランス語が用いられていたようなものだったろう。
今日でこそ、日本において韓国は「近くて遠い国」と呼ばれているが、王仁の時代には朝鮮半島と日本はほとんど一体といってよい関係によって、密接に結ばれていた。
王仁の子孫は代々にわたって河内(かわち)に居住して、朝廷に文筆と記録を編纂することによって仕え、日本文化の発展に貢献した。王仁はその名を『古事記』のなかでは『和迩吉師(わにきし)』、『日本書紀』では「王仁」と書かれている。
王仁百済の近仇首王代(在位375-384年)の学者であって全羅南道の霊岩の月出山の麓にある聖基洞が生誕の地とされており、毎年、記念行事が催されている。
ところが、最近になって、一部で王仁が漢の高祖の子孫であるとか、後漢霊帝の後裔(こうえい)であると唱えているのは。私に言わせれば史実を歪めているものである。

「紳士の国」として知られた韓国

2001年に加耶文化研究所の学術会議が開かれた日は、空が晴れあがって爽(さわ)やかだった。6月のこのあたりは、萌えたつような緑が眩(まぶ)しく、もっとも快い季節である。私はかつての伽耶の都のあたりを散策しながら、韓日関係と、新羅百済高句麗による三国時代以後の韓国の悲しい歴史について思いを巡らせた。
当時の韓国は3つの国に分かれていたが、その時代までは、国際的に高貴な「紳士の国」として知られていた。「紳士」は日本では明治以後に英語の「ジェントルマン」の訳語として定着するようになったが、もっと古い言葉である。「紳」は貴人が衣冠束帯の時に用いる大帯であって、ここに笏(しやく)をはさむことから、高い人格と教養を持った男子を意味した。
三国時代以前の韓国は、中国古代の地理書である『山海経(せんがいきょう)』や、中国の前漢の文学者である東方朔(生没不明)による書物や『三国志魏志東夷伝』などに現れるが、「仁と義」、「礼、勇、寛大」、「博愛と禁欲的な廉潔」、「自尊、武勇、快活」さに溢(あふ)れた国として描かれている。