じじぃの「歴史・思想_138_韓国・堕落の歴史・日本に亡命した高句麗王」

高麗神社へ行こう

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TAF1O_lzsb4

高麗神社を参拝される両陛下 (2017年)

両陛下が埼玉へ私的旅行 日高の高麗神社、見頃のヒガンバナを見て回られる 大勢の市民ら歓迎

2017年9月20日 埼玉新聞
高麗神社は朝鮮半島高句麗が7世紀に滅亡した前後に、日高市を中心とする地域に移り住んだ渡来人ゆかりの神社で、高句麗の王族が祭られている。
両陛下は高麗文康宮司(50)から、高句麗の人々が渡来した歴史などについて熱心に説明を聴き、参拝を済ませた。
https://www.saitama-np.co.jp/news/2017/09/21/01_.html

『韓国 堕落の2000年史』

崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行

”韓国病”はどこから始まったか?――かつての高徳の民を退廃に導いた痛恨の出来事 より

「紳士の国」として知られた韓国

2001年に加耶文化研究所の学術会議が開かれた日は、空が晴れあがって爽(さわ)やかだった。6月のこのあたりは、萌えたつような緑が眩(まぶ)しく、もっとも快い季節である。私はかつての伽耶の都のあたりを散策しながら、韓日関係と、新羅百済高句麗による三国時代以後の韓国の悲しい歴史について思いを巡らせた。
当時の韓国は3つの国に分かれていたが、その時代までは、国際的に高貴な「紳士の国」として知られていた。「紳士」は日本では明治以後に英語の「ジェントルマン」の訳語として定着するようになったが、もっと古い言葉である。「紳」は貴人が衣冠束帯の時に用いる大帯であって、ここに笏(しやく)をはさむことから、高い人格と教養を持った男子を意味した。
三国時代以前の韓国は、中国古代の地理書である『山海経(せんがいきょう)』や、中国の前漢の文学者である東方朔(生没不明)による書物や『三国志魏志東夷伝』などに現れるが、「仁と義」、「礼、勇、寛大」、「博愛と禁欲的な廉潔」、「自尊、武勇、快活」さに溢(あふ)れた国として描かれている。

武蔵の国に亡命した高句麗

百済高句麗が滅びた時に、両国の多くの遺民が日本を目指した。『日本書紀』は「百済の遺民20万人程度が白馬江、錦江、海浜を伝わって日本へ渡ってきた」ことを、詳しく伝えている。また、高句麗の遺民1万余名は、若光王(じゃこうおう)の指揮のもとで援軍を頼みに、日本へ向かったのであった。
続日本紀』は「元正天皇霊亀二(716)年、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7ヵ国在住の高麗(こうらい、高句麗)人1799人を武蔵国に遷(うつ)し、高麗郡(こまぐん)を置く」と記録している。
埼玉県日高市にある高麗(こま)神社が昭和54年に発行した『高麗神社と高麗郷』は、次のように述べている。これは昭和6年に刊行されたものを、復刻したものである。
 「武蔵国高麗郡及び新羅郡、甲斐の巨摩郡、摂津の百済郡、其の他諸国に於て、朝鮮古代の国名を以て、都邑(とゆう)の名、山川の名、原野の名となすもの少からざる事を思へぱ、日韓の歴史的関係及び日韓融和共栄の上より見て、一種無限の思慕感懐の念が油然として起るを禁ずる事能(あた)はざるなり。(略)
  天智天皇の御世に当り、朝鮮古代の高句麗百済の二国の亡ぶるや、之の国の上下の人の我が国に移住帰化して、ついに王臣となり、日本国民となり、長く王室を護り、国事に尽力した者は多い。(略)
  当時、武蔵国は古代日本の帝都所在の地を去る事数十百里、王化未(いま)だ洽(あまねし)からず、所謂 辺陬(へんすう)の地方にして、帝都所在の畿内地方に比して、地は広漢、人は稀薄。現時の如き繁栄ならず。
   分けゆけど花の千草のはてもなし
     秋をかぎりの武蔵野の原
   出づるにも入るにも同じ武蔵野の
     尾花を分くる秋の世の月
  の歌によりて、以て王朝時代の武蔵野の広漢無極の如き状態を想見すべし。斯の如き処に多数の高麗人が既に今より一千二百余年前に、其の開墾拓殖に従事して、以て現代繁栄の基を建て、源を発せし事は、武蔵野・東京府、埼玉県等を云々する者の必ず注意もし、思念もすぺき事なり」
この『高麗神社と高麗郷』は、高麗神社の祭神である高句麗王であった若光王について、詳しく記している。若光王がどうして遠くかけ離れた東海の日本まで、追われて移ったのか思うと、国の興亡の歴史について、後世に生きている私としては、心から涙をそそぐほかない。
韓国と日本の交渉が遠く神話時代に遡(さかのぼ)ることは、周知のことである。韓日間には垂仁(すいじん)天皇の治世に天日槍(あめのひぼこ、新羅の王子)が来朝したのをはじめとして、深い交渉があった。日本が帰化人から当時のアジアにおける進んだ文化を摂取したことは、唐の『晉書』に、「東国(注・日本)に文字無し、高句麗独り之を有す」と記されているのによっても分かろう。
日本書紀』のなかで、人工の灌漑施設である韓人池が登場するが、日本の歴史において高麗人の名がもっとも早く載(の)っているものである。応神(おうじん)天皇7年秋に、高麗人、百済人、新羅人が来朝して、武内宿禰(たけうちのすくね)が詔(みことのり)を奉じて、これらの帰化人に池を造らせて「韓人池」と名付けた。