じじぃの「歴史・思想_141_韓国・堕落の歴史・李氏朝鮮の成立」

李氏朝鮮はこうして出来ちゃった 朝鮮史Part 5

動画 YouTube
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李氏朝鮮 貴族階級である両班

李氏朝鮮

ウィキペディアWikipedia) より
李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年から1897年(大韓帝国として1910年まで存続)にかけて朝鮮半島に存在した国家。王朝名としては李朝(りちょう)。
李氏朝鮮」は「李家支配下の朝鮮」の意味であり、過去に「朝鮮」の国号を使用した箕子朝鮮や衛氏朝鮮などとの区別のため呼称される。大韓民国では「朝鮮王朝」とも呼ばれ、近年の日本でも同様に呼称する場合がある。なお、北朝鮮では朝鮮封建王朝と呼ばれる。李朝は歴史の順番によって高麗の次の王朝にあたり、朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもあった。

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『韓国 堕落の2000年史』

崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行

悲劇の誕生李朝成立――何が日韓両国の歴史の明暗を分けたのか? より

民族の心を復興した高麗(こうらい)王朝の繁栄

自ら唐の臣下になり下がることによって、背後から百済高句麗を攻め滅ぼした新羅は、9世紀に入ると、中央の権力が弱体化して国内が乱れ、地方で豪族が割拠(かつきょ)するようになった。そして936年に高麗朝と交代した。
高麗朝はナショナリズムを甦(よみがえ)らせ、高句麗百済の精神的な再興を企て、再び韓民族の誇りを取り戻させた。仏教文化が興隆し、1章で紹介した海印寺の「八方大蔵経」の版木も、この時代の文化の所産だった。
だが、13世紀に入って、モンゴルがアジア大陸において勢力を大きく伸ばすようになると、高麗は、この世界帝国への対応に追われることになった。1206年にチンギス・ハン(成吉思汗)がモンゴル諸族を統合し、モンゴル遊牧帝国の創健者となると、1231年には、高麗へ第一次侵攻を行なった。
その後、チンギス・ハーンの末子の子であり、第5代皇帝のフビライ・ハンが中国の統一を成し遂げ、1271年に中国の伝統を受け継ぐ正統王朝として、元朝を樹立した。そして、その後、1世紀にわたるモンゴル人による漢人支配が始まった。
高麗は23代の高宗(コジョン)のもとで、モンゴル軍の第一次侵攻を蒙(こうむ)ると、いったんは講和を結んだが、抗戦を決意して、都を開京(ケギョン)から、その西方にある江華島へ移した。開京は現在の北朝鮮の南西部にある開城(ケソン)である。
モンゴル軍は江華島を攻めあぐねた。しかし、24代の元宗(ウオンジョン)が講和の道を選んで、モンゴルから侵略しないという約束を取りつけ、1270年にモンゴルの要求にしたがって、開京に遷都した。同時に精鋭軍の解散を命じたことから、事態が急変した。

領土回復の機会を永久に絶った、李成桂(イソンゲ)の裏切り

元朝は、14世紀なかばに内部分裂し、混乱した。そして1368年に、漢民族による明朝が元朝を倒して、中国を統一することに成功した。高麗は明が混乱すると、かつて新羅の裏切りによって失った満州から沿海州にかけての旧高句麗領の回復を企てた。
そのようななかで、韓族にとって2度目の歴史的痛恨事がもたらされた。
1388年に高麗の右軍の司令官であった李成桂(1335-1408年)は、明から遼東半島を回復するために、3万8000人(10万説も)の軍勢を率いて進軍中に、こともあろうに敵である明と戦うことなく、鴨緑(ヤールー)江河口の威化島(イファト)から回軍して平壌に引き返し、クーデターを行なったのである。高麗は、外敵と通じた裏切り者によって滅びることになった。
李成桂は、1392年に李朝を創設するとともに、明に臣下の礼をとり、韓国は再び中国の属国になり下がってしまった。
これは民族に対する悪辣(あくらつ)きわまる反逆行為だった。李朝は明を天子の国と仰いで、中国文化を直輸入した。「朝鮮」という国名も、明に選んでもらったものだった。そこまでして李成桂は、クーデターによって成立したばかりの不安定な政権のバックボーンになってもらうよう、明に諂(へつら)ったのである。
その結果、中国社会の悪いところが、すべて移入された。李氏朝鮮はその後、500年にわたって党派争いに明け暮れ、骨肉の争いや中傷謀略や、不正腐敗がはびこることとなった。

朱子学の毒に、骨の髄まで侵された李朝

李朝は、中国の歴代王朝を滅亡させた理由が、党争と宦官制度と儒教による腐敗であったことを顧みることなく、明の悪い制度を、そっくり導入したのだった。そして国民を際限ないまでに苦しめ、残虐をほしいままにした。李朝のもとで、農民を中心とする国民は、人類史上で最悪の搾取を蒙(こうむ)ったといえる。
「党錮(とうこ)の獄」は、後漢桓帝(かんてい)の時代、166年に、宦官が跋扈(ばっこ)して反対党に属していた学者たちを投獄し、終身禁錮にしたことを指す。中国では同じようなことが繰り返し起こった。明朝を行き詰まらせたのは、宦官と腐敗した官僚による陰謀政治であった。その腐敗を批判した東林党と、非東林党の党派争いは有名である。
李朝でも、これとまったく同じことが繰り返されることとなった。
朱子学李氏朝鮮において、呪いとなった。朱子学は、周学、程学、張学、理学、新儒学とか、宋学など、いろいろな名によって呼ばれるが、明朝で全盛期を迎えた。朱子学はまったくの理論学であったために、その解釈をめぐっていくらでも争点を見つけだすことができる。それが党争を激化させる原因となった。
李朝は500年の長い年月にわたって、宮廷を囲む少数の両班と宦官たちが、党派抗争に耽(ふけ)り、国民を極貧のどん底まで追い込んだ。
李朝初期においては、党争の主体が「四色党派(サセクタンパ)」として知られた。これは「老少東西」の4つのグループだった。はじめは東人と西人に分かれて対立したが、西人派の威勢が高まるなかで、老壮派と少壮派に分裂した。そして東人派も、北人と南人に分かれ、時とともに無数の党派に増殖した。東西南北、老少といっても、地域や年齢を指したものではない。
これらの党派が政権を奪おうとして、士禍(サファ)と党争が激化した。士禍の「士」は、士大夫を指している。