近世の朝鮮王朝 ~両班と朱子学~
<⑤儒教と朱子学>
朝鮮王朝が重んじた朱子学とは、儒教の中の学説ないし理論体系の一つです。儒教とは、中国・春秋時代の思想家・孔子に始まる思想・学問。朱子学は、中国・南宋の時代の人・朱熹(1130-1200)が体系化した新しい儒教の学説・理論です。
http://s-yoshida8.my.coocan.jp/sub17.htm
『韓国 堕落の2000年史』
崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行
恨(ハン)の半島は、いかにして生まれたか――両班(ヤンパン)の成立、過酷な身分差別と士族の腐敗、女性蔑視 より
李朝は、韓民族をいかに歪めたか?
李朝では、国王が立法、司法、行政、軍事などの全権を独占していた。そして実際には、党派抗争に勝った士大夫や両班たちが、国王の名においてかぎりない虐政を行なった。ほとんどの王が世襲により社会的経験もまったくなかったことから、暗愚そのものであった。李朝500年のあいだ、27代にわたって続いた王のなかで、聡明な君主といえば数人しかいない。
社会構造は、国王を権力の頂点として、王族・両班(上級官吏)・中人(技術系の中・下級官吏)・常人(一般市民)・賤民(せんみん、下層民)の順序になっていた。賤民は奴婢・俳優・医者・巫女・白丁などの多くの職種についた下積みの人々から成り立っていた。もっとも、宮廷や両班の元に出入りする医者は中人に属していた。
私は李朝の身分制度を調べながら、19世紀後期に諸外国が李氏朝鮮を1つの国家だと見做(みな)していたのを、あらためておかしく感じた。というのも、李氏朝鮮は国家としての体(てい)を全く成していなかったからである。
階級制度が複雑に入り組んでいて、両班をはじめとする上の階級がそれぞれ下層の人々を蔑視して、行動を監視する仕組みになっていた。民衆が反抗することはきわめて難しかった。
李朝は高麗の社会秩序を徹底的に破壊して、新しい体制を強(し)いるために儒教をイデオロギーとして採用し、韓族が2000年近くにわたってその心の支えとしてきた仏教を仮借(かしゃく)なく弾圧した。仏教は高麗時代に隆盛をきわめたが、李朝は儒教以外の教えや信仰を異端として排撃した。
寺や仏像が全国にわたって破壊され、僧侶は賤民の身分に落とされた。仏僧や尼はソウルの東大門、西大門、南大門、北大門の4大門の中へ入ることが禁じられた。寺がみな山奥へ逃げ込んだために、人里では木鐸(ぼくたく)の音が完全に絶えた。寺が山から降りてこられたのは李朝が滅びてからのことだった。
李朝は中国を模倣して社会の儒教化を進めた。そのために高麗時代までは同姓の間で結婚することができたのに、1000年以上も前に祖先が同じだったというだけで、結婚することが許されなくなった。再婚した女性の子孫は、官吏登用試験である科挙を受験することができなかった。
儒教こそが本家の中国を2000年以上にわたって退廃させたのにもかかわらず、その儒教を骨組みとした階級制度を作り上げることによって、民衆が身動きすらできないようにがんじがらめに縛りあげてしまった。李氏朝鮮こそが、今日の不自然きわまりない韓国病を産みだしたのだった。
なぜ、労働が蔑視されたのか?
李朝は、儒教のなかでも、空理空論を好んで弄(もてあそ)ぶ朱子学を奉じたが、正義感の強い者や賢い人は妬(うと)まれて排斥され、葬(ほうむ)りさられた。儒教は徳の高い名君が上に立つ国家を想定しているが、それは表向きのことで、事実はまったくその逆であった。
親への孝行と絶対的な服従と、長幼の序が厳しく守られた。そこまではよかったが、支配階級である両班は、勤労することを厳しく禁じられ、そして空疎な学問を至上なものとして尊んだ。
そこでは労働が卑(いや)しいものであり、常民以下の仕事とみなされた。額に汗して働く者は蔑(さげす)まれた。両班は不労所得階級だった。
李朝末期のソウルに駐在したH・B・シル米公使が回想録に、高宗がアメリカ公使館を訪れた時に、アメリカの公使館員が庭でテニスに興じているのを見て、「どうしてあのようなことは召使いにさせないのか」とたずねたと記しているのは、有名な逸話である。