李容九
一進会
ウィキペディア(Wikipedia) より
一進会(イルチンフェ)は、1904年から1910年まで大韓帝国で活動した政治結社。
1904年に李容九、宋秉畯らの開化派によって創設された。日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった大日本帝国(日本)に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。日本と大韓帝国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。
当時、大韓帝国では最大の政治結社であり、会員数は公称80万人から100万人。一説には実数は4,000人未満にすぎなかったとの見解もあるが、日露戦争をロシア帝国(ロシア)に代表される西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシアの侵略を阻止しようと考えた李容九は、日本に協力し、日本が武器弾薬を北方へ輸送するために鉄道(後の京義線)を建設した際、その工事に無償で参加した一進会員は全部で15万人であったとされ、また北鮮から満州国(満州)へ軍需品を運搬する業務に動員された会員は11万5000人で、あわせて約27万人が日露戦争時に一進会として活動したという話も残っている。
日韓併合の目的を達成した一進会は、その後、韓国統監府が朝鮮内の政治的混乱を収拾するために朝鮮の政治結社を全面的に禁止したため、解散費用として十五万円を与えられて他の政治結社と同様に解散したが、一進会を率いた宋秉畯らは朝鮮総督府中枢院顧問となり、合併後の朝鮮の政治にも大きく影響を与え続けた。合邦善後策として桂太郎首相に資金百五十万円を懇請したところ、千万円でも差し支えなしと答えられ、活動に猛進した。
一方では日韓の対等合邦を日本側が拒否し、その後に韓国を飲み込む形で併合したということから元会員の間には失望、怒りが広がり、後の三・一運動に身を投じる者も多く存在した。一進会の中心人物であった李容九は日本政府から送られた華族の叙爵を断り、会の解散から1年経たないうちに憤死した。喀血し、入院していた際に訪れた日本人の友人に対して一進会の活動についての後悔を語った。
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第1章 韓国併合への道 より
「兄である朝鮮に対し、弟である日本は絶対服従しなければならない」
このあたりは偏見にとらわれていない外国の研究者も同じ考えで、たとえばアメリカ人の専門家グレゴリー・ヘンダーソンはこの一進会(大韓帝国で活動した日韓合邦運動を展開した団体。 1904年に李容九、宋秉畯らの開化派によって創設された)運動について次のように述べている。
列強の政治的大衆動員の歴史の中でも、もっとも興味あるものの1つであったといえる。事実それは、政治学上、自分の民族に対して行なわれた反民族主義的大衆運動として、今までになかった唯一の例である。朝鮮の民族主義者たちが、これを快(こころよ)しとしないことは無理からぬことで、だれもそれを口にしない。
(『朝鮮の政治社会』グレゴリー・ヘンダーソン著 鈴木沙雄・大塚喬重訳 サイマル出版会刊)
私が指摘したことをヘンダーソンは「自分の民族に対して行なわれた反民族主義的大衆運動」と表現している。これは「政治史上」「今までになかった唯一の例」であることも、私の説明と合わせて読んでいただければまさに朱子学の呪縛のもたらした特異な現象であることがわかるだろう。そして学者も含めた朝鮮も含めた朝鮮の民族主義者が、これを「認めなくない」という心情も理解していただけるのはないか。「日本が朝鮮半島の近代化に貢献した」ことすら認めたくない人間が、「日本との合併を推進した」李容九を愛国者として認めるはずがない。しかしそれにこだわっていては、歴史学という学問はまったく進展しないこともおわかりだろう。こうした歴史学界の陋習(ろうしゅう)を打ち破ろうとした歴史学者李栄薫の著書のタイトルが、なぜ『反日種族主義』なのか。このことについても読者の皆さんの理解は一段深まったのではないか。韓国・朝鮮史の「専門家」の中にはこのような問題点、いや問題点などという生易しいものではない欠陥があることを、ぜひ留意していただきたい。
おわかりだろうが、この欠陥は今後の問題に関しても繰り返し出てくる。それがまさに朱子学の呪縛というものなのである。
この一進会の問題についても、そのことがかかわってくる。李容九が売国奴どころか愛国者であったことは理解していただけたと思うが、問題は彼自身の「日本との合併計画」の中身である。その中身は日本による韓国併合では無く、本当の意味の対等合併でありまさに「日韓合邦」であった。何度も言うが、当時の韓国は日本が明治維新から数十年にわたって成し遂げてきた四民平等もなければ、議会も工場も教育制度も無かった。とくに教育面は深刻で、エリート層は朱子学一辺倒で西洋の学問の知識はほとんど無く、一般庶民に至っては読み書きすらろくにできないというレベルだったのである。冷静に客観的に見れば、そんな韓国と日本が対等合併などできるはずがない。
ところが李容九は対等合併を主張していたのである。なぜだか、もうおわかりだろう。おわかりにならないという方はもう一度朱子学の呪縛という言葉を思い出していただきたい。朱子学の世界においては「中国が父、朝鮮は兄、日本は弟」なのである。儒教そして朱子学の世界に根本道徳として伝わってきた『長幼の序』という言葉がある。「年長者と年少者との間にある秩序」(『デジタル大辞泉』小学館刊)という意味で、この場合は「兄である朝鮮に対し、弟である日本は絶対服従しなければならない」という意味だ。それをなんとか「対等」というレベルまで「譲歩」したのが一進会で、じつは彼らの感覚で言えばこれは日本に「一歩」どころか「百歩」譲ってやったという感覚なのである。しかし、実際には明治維新以後20世紀の初頭までの間に日本と韓国の間にはきわめて大きな進歩の差が生まれている。だからこの時代のような両国の関係なら、他の世界の人間はすべて「先に進歩を遂げた先輩」である国に頭を下げて教えてもらう、という決断をするだろう。ところが、愛国者にして崔益鉉(保守的な国粋主義者で衛正斥邪運動・抗日義兵闘争を指揮した)などにくらべればはるかに世界情勢を理解している李容九ですら、ここだけは絶対譲れないのである。だから「対等にしてやる。それならいい」という形になる。
こうした中、「韓国を併合する必要は無い。保護国として近代国家に成長させればよい」という意見の持ち主だった伊藤博文が、どうも「匙(さじ)を投げた」ようなのである。じつははっきりとその心境の変化を記録した史料は無いのだが、保護国としての大韓帝国の総監として、韓国併合強硬派の歯止めになっていた伊藤は1909年(明治42)6月、ついに総監を辞任する。後を継いだ当時副総監だった曾禰荒助(そねあらすけ)は長州人で桂太郎内閣では大蔵大臣を務めたことがあり、伊藤路線の継承者ではあったが首相桂太郎に抵抗できるほどの力は無い。実際、伊藤が総監を辞任すると、桂内閣では待ってましたとばかりに韓国併合の方針を閣議決定した。