じじぃの「歴史・思想_625_逆説の日本史・韓国併合への道・金玉均」

金玉均

ウィキペディアWikipedia) より
金 玉均(キム・オッキュン、1851年2月23日(旧暦1月23日) - 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家で、朝鮮独立党の指導者。李氏朝鮮時代の思想家。
字は伯温(ペゴン)、号は古愚(コウ)。本貫は新安東金氏。開明派(開化派)として知られ、朝鮮半島として初の諸外国への留学生の派遣や『漢城旬報』の創刊発行に協力した。
●日本と清との関係
清朝から独立し、日本の明治維新を模範とした朝鮮の近代化を目指した。1883年には借款交渉のため国王の委任状を持って日本へ渡ったが、交渉は失敗に終わり、1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月には日本公使の竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。
井上角五郎らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には岩田秋作と名乗っていた。

金玉均や朝鮮の文明開化による自立を支援してきた福澤諭吉は1885年(明治18年)2月23日と2月26日の論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」という論説では、李氏朝鮮凌遅刑という残忍な方法で甲申政変後に金玉均ら開化派の三親等の一族処刑して遺体を晒し者にした報を聞いて、朝鮮の体制を激しく非難し、金玉均ら朝鮮開化派の死を涙している。

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『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第1章 韓国併合への道 より

日本が「もはや朝鮮国の説得は不可能」と思い定めたワケ

日本が明治維新を成し遂げた後も排他的な朱子学の強い影響下にあった、いやそれどころか「洗脳された」といってもいい状態にあった朝鮮国は、頑(かたく)なに日本との交流を拒んだ。その最大の理由が新たに日本の元首となった「天皇」の「皇」という字が認められない、ということであった。この『逆説の日本史』シリーズの愛読者なら、なぜそういうことになったのか理解していただいていると思うし、そうでは無い新規の読者にはあらためて『逆説の日本史 第二十四巻 明治躍進編』や『コミック版 逆説の日本史 幕末維新編』(いずれも小学館刊)、また併せて『反日種族主義 日韓危機の根源』(李栄薫イ・ヨンフン編著 文藝春秋刊)などを読んでいただければ、「洗脳」という強い言葉をなぜ使わなければいけないのかも含めて理解していただけると思っている。
日本は「朝鮮国の説得は不可能」と思い定めた。こういう表現に抵抗を覚える人もいると思うが、この点については後で詳しく分析するので取りあえず話を進めるが、「話し合い」が不可能なら武力に物を言わせるしか無い。欧米列強の植民地にされないためには彼らを見習い西欧近代化の道を進めるしか無いのだが、朱子学はそれを野蛮な行為と決めつけ断固拒否する。日本も幕末にそうした連中に悩まされたが、朝鮮国はそれ以上で近代化も中国(清国)からの独立も拒否した。このままではあきらかにロシアの植民地となり、次は日本の番ということになる。そこで日本はまず清国と戦って勝ち、清国に「朝鮮国は独立国である」と認めさせた。それまで朝鮮国は清国皇帝に朝鮮国王を任命していただくという形を取り、その任命の使者つまり清国の官僚に朝鮮国王は三跪九叩(さんききゅうこうとう)という、土下座以上の「世界一屈辱的な礼」(最近はネットで映像を見ることもできる)で迎えなければいけなかった。
ところが日本が清国に朝鮮の独立を認めさせたおかげで、以後そんなことをしなくてもよくなった。喜んだ当時の朝鮮人は、その使者を見返る場所にあった「迎恩門」(これも屈辱的な名前で、清国の恩に感謝しろという意味)を叩き壊し、新たに「独立門」を建てた。要するにこれは「清国からの独立」を祝うための門なのだが、韓国人の多くはこれを「日本からの独立(光復)」を祝った門だと誤解している。
最近正しい歴史を知る人も増えてきたが、なぜそんな誤解をしていたのかと言えば、歴史教育できちんとそのことが教えられていなかったからだ。つまり、この時点で朝鮮の目覚めた人々の中には、日本に感謝し日本を見習うべきだと考えた人も少なからずいたのである。その代表が金玉均(キム・オッキュン)だが、彼は近代化を拒む朝鮮王室が差し向けた刺客に暗殺され、その遺体は母国で凌遅(りょうち)刑に処せられた。正式には生きたまま五体をバラバラにして晒(さら)し者にする刑罰(これもネットで画像が見られるが、決しておすすめでは無い)で、日本の晒し首どころでは無い。「世界一残虐な刑」と評する向きもある。金玉均は遺体にその処置をされたのである。
このあたりで日本は、朝鮮国の内部からの変革は不可能だと考えた。日本と中国と朝鮮がタッグを組んで欧州列強に対抗すべきだと唱え続けていた勝海舟などの論者も、多くはそう考え転向した。それが保守派の頂点にあり、自らの快楽と野望のために国費を浪費し国民を苦しめていた朝鮮王の王妃閔妃(びんひ)の暗殺につながった。
問題は、この暗殺を日本が主導してしまったことである。いくら「朝鮮人民を救うため」であっても、そういうことは朝鮮人に任せるべきであった。ちなみに、現在の韓国では閔妃がいかに朝鮮人民を苦しめていたかは一切隠ぺいし、逆に彼女が主人公となったミュージカルやドラマを作り「日本人に殺された反日の英雄」に祀り上げている。前出の『反日種族主義』の編著者がその前書きで、「この国の歴史学社会学は嘘の温床です。この国の大学は嘘の製造工場です」と嘆くわけである。
とにかく事実だけ言っておけば、当時の朝鮮王朝はきわめて腐敗しており人民を苦しめていた。そして、その支配者たちは客観的にみれば唯一国家の独立を保つ道である西洋近代化を、朱子学に洗脳されて徹底的に拒んでいたことである。そこで日本は、武力をもって弾圧的にこの国の近代化を実現するしか無いと考えた。取りあえずは日本の指導によって近代化を進める「保護国」とするが、最終的なプランとしてイギリスが北アイルランドに、アメリカがハワイ王国にしたように「併合」という形も視野に入っていた。英米に「お手本」があるということだ。しかし、冒険的な試みには常に慎重な姿勢を取っていた元老伊藤博文がまだまだ日本の正解には強い影響力を持っていたので、同郷後輩の桂太郎首相は直ちに併合まで進むのは無理だと考えていた。
もちろん、日本は常に善意をもって朝鮮国に接していたわけでは無い。むしろ朝鮮国の朱子学的偏見に基づく日本を見下す態度に腹を立て、明治の当初から武力をもって日本の主張を押し通すべきだという考えもあった。いわゆる「征韓論」である。