じじぃの「歴史・思想_147_韓国・堕落の歴史・金玉均ら開化派」

悲しきヒーロー 金玉均 朝鮮史Part 13

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=j0DV0HmiZgU

大院君 世界史の窓

19世紀後半、朝鮮王朝の実権をにぎり激しい排外、攘夷策をとった。閔氏一族と対立し、壬午軍乱で清に抑留される。帰国後もたびたび政変に関わった。
朝鮮王朝(李朝)国王の高宗の父として大院君の称号を授けられた。高宗の即位に伴い摂政となった1863年から実権を握り、それ以後、19世紀末まで朝鮮の政治史の中で浮沈をくりかえした。
●激しい排外主義
大院君は外戚政権を抑え、両班(文武官僚の地位を世襲した門閥貴族)の勢力を抑えるなど改革を行った。また強まる列強の開国要求に対しては、儒教大義名分論に基づいて、武力によってその要求を拒絶し、1866年のアメリカ船シャーマン号事件、同年のフランス人神父の処刑などの強硬な排外、攘夷策を採った。しかし、その強引な政治には反対する勢力も強く、高宗が成人した1873年に引退した。代わって高宗の后である閔妃とその一族が力を持つようになり、閔氏政権が日本の脅迫に屈して江華条約を締結して開国に応じた。この間、大院君は政権から遠ざけられていたが、宮廷内の抗争はたびたび大院君の力を利用しようとしたので、隠然とした力をふるい、政権復帰の機会を狙っていた。
●激しい政治的な浮沈
1882年、日本と結ぶ閔氏政権との下級兵士の反乱である壬午軍乱が起こると反乱軍に担ぎ出されていったん政権に復帰したが、すぐに介入した清軍によって拘束され3年間抑留された。朝鮮では閔氏政権が復活し、清の力を頼る保守派の事大党が力を持つようになり、日本と結んで改革を進めようとする独立党との対立が激しくなり、1884年に独立党の金玉均らが閔氏と事大党を排除する甲申政変を起こしたが、清が軍隊を派遣し、鎮圧した。その後、朝鮮宮廷にはロシアが徐々に発言力を増しきたため、清の李鴻章は大院君を帰国させ、閔妃に圧力をかけようとしたが、大院君にはかつてのような名声はなく、孔徳里の別荘で書画三昧の生活を送るしかなかった。勝海舟とも絵を交換する交友関係があったという。
https://www.y-history.net/appendix/wh1303-128.html

『韓国 堕落の2000年史』

崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行

呪われた帝国の最期──なぜ韓民族は、独立を失うにいたったのか? より

金玉均(キムオクキュン)ら開化派によるクーデター

1884年に、開化派である独立党が日本の支援によって、クーデターを起こした。「甲申政変」である。
独立党は、高宗に弊政改革を図ることを強いた。高宗は宗室、百官などを引率して宗廟を参拝し、改革の推進を誓ったうえで、これを宣布した。
そして李成桂が自主独立国家であった高麗を潰して中国に隷属して以来、使われなかった「朕」「陛下」「詔」「太子」などの皇室用語をはじめて使用することによって、清国の宗主権を否認した。華夷秩序のもとでは、中国だけに皇室があったのだ。
こうして、1392年の李朝開国以来、明と清に隷属した自治省にすぎなかかった李氏朝鮮は、492年後に、はじめて自主独立体制を確立した。
開化派の中心人物は、金玉均だった。彼は、世界の大勢と朝鮮の近代化改革の必要性を、もっとも早く認識した人物であり、21歳で科挙試験に一等の成績で合格した優秀な愛国者であった。

彼は1881年に来日して福沢諭吉らと接触、1883年には最初の近代的新聞「漢城旬報」を発刊し、立憲制度、近代的商工業を紹介した。官位では戸曹参判(財務部次官)等を歴任、王室からも信任された。

そうして「甲申政変」によって政権を掌握すると、政網を公布、最初のブルジョワ改革を行なった。
彼の思想と活動は、当時としてはもっとも先進的で、愛国的思想に貫かれていた。
しかし、当時、ソウルには、1500人の清軍が駐留していたのに対して、日本軍は140人しかいなかった。清軍が出動したため、日本軍が敗退して、独立党の政権は文字どおり三日天下で終った。
李朝500年の閉鎖と暗黒を救うべく、最善の努力を傾注した金玉均と改革派の努力は、再び清国軍の介入と守旧派の妨害によって崩れたのである。
さらには、惰弱にして鈍感、優柔不断で讒言(ざんげん)を好み、事理に暗い高宗は、事大派、守旧派の讒言に唆(そそのか)されて、金玉均ら開化派の亡命先である日本に、刺客(しかく)を送った。
清と李王朝が放つ刺客を逃れて、丸10年にわたって小笠原、北海道を転々とした末に、金はついに日本を出て、清の李鴻章(りこうしょう)と面会すべく、危険を知りながら1894年2月、上海に到着した。そして旅館「東和洋行」に投宿したが、同年年3月22日(陽暦3月28日)、李朝の放った刺客、洪鍾宇によって、暗殺された。44歳の天才は、愛国の大望もむなしく、李王朝の下手人によって最期を遂げた。

ロシア行使館の中で政務を執った国王

高宗も、閔妃も、大院君も、ただ権力を維持するために、その時々、力のある外国と結んで利用し、政治を弄(もてあそ)んだ。このような放逸な政治を行なったことから、1894年に東学農民の動乱が起きると、その乱の鎮定を清に委ねるという愚行を犯し、日清戦争を誘発させた。しかし、高宗も廷臣たちも、何らの責任も感じなかった。
日清戦争の翌年の1896年2月11日の暁(あかつき)、高宗王と王世子は極秘のうちに、宮城から脱出してロシア行使館に居所を移した。これを「俄館播遷」というが、朝鮮の悲劇は、このように一国の主権である君主が、みずから王宮を脱するという怯弱(きょうじゃく)な体(てい)たらくであったことである。