じじぃの「科学・芸術_973_中国・日清戦争と東アジア」

下関条約

世界史の窓
1895年、下関で日本全権伊藤博文と清国全権李鴻章の間で締結された、日清戦争講和条約
1)朝鮮の独立の承認(干渉権の放棄)。
2)清は遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲する。
3)2億両(テール)の賠償金の支払い。
4)日本の通商上の特権を認める。
5)長沙、重慶、蘇州、杭州の開市。
遼東半島は後の三国干渉によって、清に還付される。 
https://www.y-history.net/appendix/wh1303-144.html

『中国の歴史を知るための60章』

並木頼壽、杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行

日清戦争と東アジアの国際情勢 より

19世紀の末、1894年から1895年にかけて戦われた日清戦争(甲午中日戦争)は、そののちの東アジア史の方向を決定する出来事であった。この戦争の結果結ばれた下関条約(馬関条約)によって、朝鮮を完全な独立国とすることが謳(うた)われた。このことにより、2000年以上にわたってつづいてきた東アジアの伝統的国際秩序=冊法体制(さくほうたいせい)が名実ともに消滅した。また、この戦争によって清朝が思いのほか弱体であることが暴露され、欧米列強による中国分割の動きが一気に強まり、1860年代以後比較的安定していた東アジアの国際関係は、一気に流動化しはじめる。このようななかで日本は、台湾を植民地として領有し、軍備を増強して、朝鮮半島から中国大陸へと勢力圏を拡大する大陸国家としての歩みを開始する。
日清戦争は、朝鮮半島をめぐる日中の確執からおこった。朝鮮半島では14世紀末以来、朝鮮王国(李氏朝鮮)が500年つづいていた。この国は毎年北京へ朝貢使を送っていた。日本と異なり、東アジアの伝統的国際関係のなかに完全に入っていたのである。この朝鮮王国へも19世紀半ばともなると、欧米列強、さらには明治維新後の日本といった近代の波が押し寄せるようになる。これに対し朝鮮政府ははじめは激しい攘夷政策をもって応じていたが、内外の情勢に促され1876年、日本とのあいだに日朝修好条規を結んで以後、徐々に開国を進め近代化への歩みをはじめた。しかし、日中に比べ貨幣経済の進展が遅かった朝鮮社会での近代化は、何かと軋轢(あつれき)の多いものとならざるをえず、また保守派からの掣肘(せいちゅう)も大きかった。このようななか、伝統的国際秩序である冊封体制のなかに止まり清朝の洋務運動に倣った改革を進めようとする穏健開化派(事大党)と、冊封体制を否定し日本の明治維新をモデルに近代化を進めようとする少壮官僚中心の急進開化派(独立党)の対立が生じる。
朝鮮半島が欧米列強の勢力下に入ることは、日本にとっても清にとっても大きな脅威であった。このため朝鮮の近代化を促すとともに、自国の影響下に朝鮮を取り込もうとする動きが日中双方に出てくる。中国では従来の冊封関係の枠を越え、朝鮮を近代的な植民地へと転換しようとする意見が何如璋(かじょしょう、初代駐日公使)ら一部官僚から出るようになる。しかし、清朝の実権を握っていた李鴻章(りこうしょう)は、伝統的な冊封秩序内で朝鮮に影響力を行使しようとしていた。一方日本では、朝鮮を日本の利益線と位置づけ、軍事的に支配しようとする構想が軍部や政府の一部にあった。しかし、1884年親日政権樹立のクーデタ失敗(甲甲事変、独立党と日本勢力が組んで起こしたクーデタ)以後、日本は朝鮮での足がかりを失った状態であった。このため当時の日本政府を主導していた伊藤博文(いとうひろぶみ)や井上馨(いのうえかおる)は、清朝との協調関係を維持したうえで朝鮮に関与するという政策をとっていた。李鴻章伊藤博文とのあいだには一種の協調関係が成立していた。
このようななかで、1894年朝鮮半島南部で大規模な農民反乱(甲午農民戦争)が発生し、一時はソウルを窺(うかが)う勢いをみせた。その鎮圧に手を焼いた朝鮮政府は清朝に出兵を要請し、李鴻章はそれに応えて部隊を朝鮮に送った。これは冊封関係の慣例にもとづく行為である。これに対し日本は、朝鮮における清の勢力が強まることを避けるべく、同時に朝鮮に出兵した。これは甲甲事変の善後処置として日清間で結ばれた天津条約の規定にもとづくものであるが、これが日清戦争の発端となる。しかし、この時点で伊藤博文ら明治政府首脳が清朝との開戦を意図していたか否かは、研究者のあいだでは見方が分かれる。近年の研究では、伊藤内閣は開戦の意図をもって出兵したわけではなく、そののちの内外の情勢に押されて開戦にいたったとする見方が有力である。
日清両国が同時に朝鮮へ出兵したとき、農民反乱は外国の干渉を避けるため、政府から改革の約束をとりつけると矛(ほこ)を収めて故郷へ引き揚げた。出兵の理由がなくなったことになるが、すでに大軍を動かしてしまった日本は、ここで朝鮮の共同改革を清に提案。それが断られると単独の改革案を朝鮮政府に突きつけ、拒否されると軍事的圧力のもとに親日政権を作りあげる。さらに、清朝が朝鮮の改革を阻み独立を危うくしているとして、清軍に先制攻撃をかけ、宣戦を布告した。日清戦争のはじまりである。
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開戦前、清帝国は「眠れる獅子」といわれ、大国のひとつとみなされていた。巨艦定遠・鎭遠を擁する北洋艦隊は東洋一とみなされていたし、清仏戦争時(1884年)ヴェトナムでのランソンの戦いでフランスの陸軍を破った(この敗戦のためフランスではときの内閣が総辞職した)清朝陸軍の力も、侮りがたいものと思われていた。しかし、1880年代後半以来、清朝の近代化政策(洋務運動)は多くの問題を抱えるようになっており、日清戦争における陸海の戦闘は、そのことを白日のもとにさらす結果となった。黄海の海戦では、北洋艦隊は装備の更新の不備のため、その能力を発揮することなく壊滅的な打撃を受けて敗退し、黄海制海権は日本が握ることになった。陸戦でも、清軍は平壌の戦い以後、つぎつぎと敗退を重ね、日本軍は朝鮮半島を越えて中国本土に攻め入り遼東半島を制圧し、北京を窺う勢いをみせた。
このような情勢下、下関で講和談判がおこなわれ、下関条約(馬関条約)が結ばれ、戦争は終結した。
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日清戦争後、日中韓3国はともに欧米列強からの植民地化の脅威を受けながら近代化を進めるという意味では、国際的には比較的似た立場にあった。しかし日清戦争後、日本は欧米に倣った帝国主義国としてアジア侵略の道を歩みはじめ、中国と朝鮮は徐々に植民地もしくは半植民地状態へと落ち込んでいった。日清戦争とは東アジアの3国にとり、そののちの歴史を方向づける決定的な意味をもった戦争であったといえよう。