じじぃの「科学・芸術_974_中国・日露戦争と立憲運動」

明治37-38年(1904-05) 日露戦争 陸戦編

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sF52fmUMW_o

日露戦争

日露戦争は1904年2月8日から1905年9月5日にかけて満州南部、朝鮮半島樺太日本海上で行われた戦い。
交戦勢力はロシア帝国軍で、日本側の勝利に終わった。
https://rekishi-memo.net/meijijidai/russo_japanese_war.html

『中国の歴史を知るための60章』

並木頼壽、杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行

日露戦争と立憲運動 未完に終わった清末立憲運動 より

日露戦争(1904~05年)は、中国人に日本観に微妙な変化をもたらした。20世紀初頭の中国は、清朝の光緒新政のもと空前の日本留学ブームであり、官民挙げて日本に学べという風潮であった。しかし、日露戦争後の日本の政策は日本に対する警戒心を呼びおこし、これがその後の中国の対日観の基調となってゆく。その一方で、日本とロシアの戦争は、立憲君主体制と皇帝専制体制との戦いとみられ、日本の勝利は立憲の勝利と受け取られた。このことから、それぞれ思惑は異なりながらも官民共に立憲体制への取り組みがおこなわれることになる。
日清戦争によって、日本は朝鮮半島から清朝の影響力を一除することに成功したが、強まる日本の圧力を嫌った李朝政府は、ロシアとの関係を深めた。これに苛立った日本は、ロシア派とみられていた朝鮮王妃の閔妃(ミンビ)を殺害するという粗暴な行為に出た。このようななか、朝鮮国王が一時期ロシア公使館内に保護を求める(露館播遷、ろかんはせん)という事態も発生し、朝鮮半島をめぐる日露の立率は激しさを加えた。この立率は義和団事件以後、いっそう抜き差しならぬものとなっていった。
8ヵ国連合軍の一員として出兵したロシアは、中国の東北地区(満州)へも東清鉄道の利権保護などを名目に軍を侵攻させ(露清戦争)満州全域を制圧した。北京議定書によって各国の軍隊は撤退することになったが、ロシアは満州の件は別だとして独自に清朝と交渉に入った。交渉は難航したが、1902年に日本とイギリスのあいだにロシアを想定した日英同盟が締結されるなどの国際情勢の変化により、ロシアはいったんは満州からの撤兵に同意した。しかし、第一次撤兵がおこなわれただけで、そのあとも満州に居座りつづけた。このため中国では反露感情が高まり、日本留学中の学生のあいだでは拒俄義勇軍(「俄」は」中国語でロシア)結成などの動きがみられたが、朝鮮半島全域の確保を狙う日本にとっても座視できないことであった。朝鮮半島満州の勢力範囲をめぐって日露間で交渉がもたれたが、日本が朝鮮半島全域の確保することは、旅順・大連を租借地としてもち遼東半島の「確保を狙うロシアにとって受け入れられることではなく、交渉は進展しなかった。結局、日本はロシアが朝鮮の独立を危うくしているとして、開戦に踏み切った。日露戦争は日本の総力を傾けた戦いであったが、日本優勢に推移するうちに、中国進出の足がかりを求めるアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介のもと、ポーツマス条約によって戦争は終結した。この条約によって日本は、ロシアが南満州でもっていた利権を受け継ぐことになった。また、日露戦争中に日本は、朝鮮の保護国化を進めていった。
日露戦争は日本とロシアのあいだで朝鮮半島満州をめぐって戦われ、戦場はおもに中国領の満州でありながら、清朝は中立宣言していた。このため中国の日露戦争に対する見方は、屈折したものとならざるをえなかったが、当初世論はおおむね日本に同情的であった。この戦争は黄色人種と白色人種との戦いとされ、黄種の牙城として日本の勝利を期待する記事が新聞・雑誌に載った。アジア解放の先頭に日本が立つことを期待し、日本は「アジアの公戦」を戦っているとする論まであった。
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1905年、清朝は日本および欧米に向けて5人の大臣を憲政視察のため派遣する。この視察において清朝がもっとも注視したのは、天皇の大権を謳う日本の明治憲法であった。日本もこの使節団を歓迎し、伊藤博文みずから憲法の講義をおこなうなどした。この使節団の報告をもとに、翌年に清朝は予備立憲の上論を発し、立憲体制へ移行することを宣言した。これを受けて、国内の立憲派は大資本家の張騫(ちょうけん)らを中心に予備立憲公会を組織し、早期の立憲移行を求めて活動を展開し、政治家の梁啓超(りょうけいちょう)も政聞社を組織するなど、内外で立憲運動が展開される。
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こうしてみると、清朝は立憲体制へ向けて着々と歩みを進めていたかのようにみえる。しかし、辛亥革命(しんがいかくめい)から袁世凱(えんせいがい)の軍事独裁軍閥内戦と、そのあとの中国の歴史は、立憲体制とは異なる道をたどる。清末の立憲運動は、なぜ未完に終わったのか。まず、清朝政府の思い描く立憲と民間の立憲派のそれとでは、目指す方向が異なっていた。清朝が立憲体制に期待するものは、あくまでも皇帝権力の存続と強化であった。