じじぃの「歴史・思想_626_逆説の日本史・韓国併合への道・高宗」

#韓国歴史#朝鮮近代【ファナム解説編】朝鮮王26代王:高宗(コジョン)の治世その2。自主独立と大韓帝国樹立。

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YkGjbw5r_ok

高宗光武太皇帝


高宗

ウィキペディアWikipedia) より
高宗(こうそう、コジョン、1852年 - 1919年)は、朝鮮王朝第26代国王(在位:1863年 - 1897年)、後に大韓帝国初代皇帝(在位:1897年 - 1907年)。
韓国併合後は太王(王族)の称号を与えられ、徳壽宮李太王と称された。
●初代大韓帝国皇帝
「大韓国国制(朝鮮語版)」では、第2条で「大韓帝国の政治は万世不変の専制政治」、第3条で「大韓国大皇帝は無限の君権を享有」、第4条で「君権を害する臣民は、既に行ったかいまだ行っていないかを問わず、臣民の道理を失った者と見なす」として王権をさらに拡大した。
朝鮮日報は「近代を拒否し、古代へ回帰した」と表現している。皇帝になってからも高宗の周辺は安定せず、1898年7月には皇帝譲位計画が、9月には金鴻陸による毒茶事件(高宗・皇太子暗殺未遂事件)が起こっている。また、独立協会を中心とした独立派に対する守旧派の妨害によって政府内は暴力的政争の状態になり、ついには独立協会は解散、議会政治への道も閉ざされてしまう。高宗は光武改革という近代化政策を推し進めるが、財源の一元化の失敗、脆弱な財政基盤を強化するための増税が民衆反乱を招き、改革は頓挫してしまう。
一方、満州と朝鮮を挟んで、ロシアと日本の帝国主義国家間対立は深刻化し、1904年 - 1905年に日露戦争が勃発した。朝鮮日報によると今度はフランス公館へと逃亡しようとした。

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『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第1章 韓国併合への道 より

「頑迷固陋な国は武力をもって力ずくで改革すべし」

もちろん、朱子学の世界では主君が絶対である。どんな暴君暗君であっても、臣下は忠義を尽くすのが正しい。フランス革命のように国王を死刑にするのは絶対に許されないし、それどころかイギリスの名誉革命のように国王に民衆の権利を認めさせることすら絶対にしてはならないのである。逆に朝鮮国を西洋並のまともな国にし、最終的には朝鮮人を幸せにしようとしていたのは日本であり、その証拠にその方向で朝鮮を改革しようとしていた金玉均らを日本人は全面的に援助していた。その段階でイザベラ・バードが批判したような問題は間違い無くあっただろう。それが日本人のやり方だからだ。しかしあくまで朱子学にこだわるならば、金玉均は大逆罪で死刑にするのが正しく、日本の影響など排除して「独立」し、国民は李王朝に忠誠を尽くし「民衆を絶対に幸せにしない国家」を守り続けるのが正しい、ということにもなる。当時の朝鮮人の「反日」「独立」とはそういうものであったことを、現代の韓国人にはそろそろ認識してもらいたいところだ。
もちろん、日本が金玉均らを援助したのは自国の利益もあるからだ。イザベラ・バードは先ほどの文章でそこまでは主張していないが、多くの人はこの文章を読んだ時「いっそのこと、李王朝は滅んでロシア領になったほうが民衆にとって幸せではないか」という感想を抱いただろう。確かに、民衆の幸せを第一義に考えるならばそのほうが良かったかもしれない。しかしそれでは困る国がある。日本だ。強大なロシア帝国朝鮮半島全体を自国の領土にすれば、次は日本の番になる。だから日本は日清戦争に勝って「朝鮮国の独立」を清国に認めさせ、ロシア帝国の強大化を望まないイギリスと同盟を結び、日露戦争大韓帝国がロシア領になることを防いだ。この間に日本人の多くが望んでいたことは、現代の韓国で教えられている「いずれ朝鮮国を日本領にする」では無く、朝鮮国が西洋近代化し独立国家となって日本と連携することであった。何度も言うが、金玉均はそのために命を落としたのであって。朝鮮を日本の属国とするために動いていたわけではない。しかし、このあたりで日本は朝鮮に絶望し「自力で近代化するのは不可能な国」と考えるようになった。教育で「普及」してしまった「神巧皇后神話」の影響もあった。それを国論にしたのが、福澤諭吉の『脱亜論』である。この福澤の「絶望」については『逆説の日本史 第二十三巻 明治揺籃編』で詳しく述べたところだから再説しないが、このような頑迷固陋(がんめいころう)な国は力にモノを言わせて力ずくで改革するしかないということで、そんな意識が高まったところで日本は日露戦争に踏み切った。

ロシアに大韓帝国を占領されては大変なことになるので、1904年(明治37)2月に日本軍は素早く仁川(インチョン)に上陸して首都漢城を占領し、大韓帝国高宗(コジョン)に強要して日韓議定書を成立させた。韓国政府は日本軍に全面協力し、また日本の承認なしに第三国と自由に条約を結べないというもので、この時点で韓国は事実上日本の保護国となったと言える。そして同年8月、日本と韓国は第一次日韓協約に調印した。これは韓国政府の各部門に日本人顧問を置くというものである。
そして『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』で述べたように、日露戦争終結直前の1905年(明治38)7月に急きょ来日したアメリカのウィリアム・タフト陸軍長官と桂太郎首相の間で「桂・タフト協定」が結ばれた。日本はフィリピンをアメリカの領域と認める代わりに、アメリカは韓国を日本の領域と認めるという「密約」を交わしたのである。そしてその後の日英同盟改定では、日本がインドをイギリスの領域と認める代わりに、イギリスは韓国を日本の領域と認めるという合意がなされた。そして日本はポーツマス条約でロシアからさまざまな利権を獲得するとともに、韓国に対する優越権も獲得した。こうして米英露に横槍を入れられない状況を作ったのち、日本は第二次日韓協約(乙巳保護条約)を韓国に認めさせた。これは日本の承認無しに韓国が外国と条約を結べないようにしたもので、ここにおいて韓国の外交権は剥奪された。また、主に韓国の外交を管理する日本人の総監が一名置かれ、艦上に駐在することになった。初代総監には大物中の大物である元老伊藤博文が任命された。