じじぃの「人の死にざま_1704_李・容九(大韓帝国の政治家・韓日合邦)」

李容九

李容九 ウィキペディアWikipedia) より
李 容九(り ようきゅう、1868年2月14日 - 1912年5月22日)は、大韓帝国の政治家。韓日合邦の推進者の一人。現在では親日派とされる。
両班の高位階級であった門閥の家に生まれた。若くして崔時享の東学に加入し、光緒20年(1894年)には甲午農民戦争を指揮して日本軍と戦った。光武2年(1898年)に李容九ら東学党は逮捕されたが、投獄中黙秘を続け、後に釈放された。光武5年(1901年)、東学党天道教と改名した孫秉煕と共に訪日、日露戦争において親日に転じた。
韓日合邦を要求する声明書 ウィキペディアWikipedia) より
韓日合邦を要求する声明書は、1909年12月4日、大韓帝国親日団体一進会(公称会員数百万人、実数数万人程度)が皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送った大韓帝国と日本の対等合併を要望する声明書である。韓日合邦建議書ともいう。
【評価】
南北朝鮮では当時一進会が民衆のみならず知識人からも強い批判を受けていたこと、それまで一進会が同じく親日派李完用首相と共に日本の朝鮮侵出を援護してきたことなどから、この声明書に対して「国権防衛運動、義兵闘争、愛国啓蒙運動などに反するもの」であると非常に批判的であった。

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『教科書が教えない歴史〈4〉』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
恨みを残した一進会の日韓合邦論 (一部抜粋しています)
韓国併合は、日本の強い圧力で行われました。しかし、韓国側にもこれを熱心に推進したグループがありました。「一進会」といいます。
朝鮮には、日清戦争の発端となる乱を起こした東学党という新興宗教がありました。その後、弾圧により天道教と名前を変え、教祖の孫秉熙(ソンビョンヒ)は日本に亡命しました。その高弟、李容九(リヨング)は、朝鮮で刑を終えると日本に行き孫と会い、朝鮮における責任者に任じられました。
李は来日したさい、樽井藤吉の『大東合邦論』という本に出合いました。当時、欧米諸国は東洋に進出し、次々に植民地を広げていました。樽井は、欧米諸国に対抗するため、こう主張していました。「ドイツがプロシアを中心に連邦を組んだように、日本と韓国が合邦し、支那と連合して粳米にあたらねばならない」。ドイツは19世紀初め、多くの小国に分裂していましたが、フランスの圧力に対抗するため、連邦を組み、1つの国としてまとまったのです。この意見にすっきり感動した李容九は、韓国と日本の合邦を積極的に唱え始めました。
日露戦争が始まると、孫秉熙は帰国しました。しかし、反日的な孫は対日路線を巡り李と対立し、李を破門しました。李容九は同志を集め、侍天教という宗派を結成します。天道教の主力は朝鮮に残り苦労した李に従い侍天教に移りました。この侍天教が主力となり結成されたのが一進会です。
一進会は、日露戦争では、建設を急ぐ鉄道用地の交渉や、資材の運搬など積極的に日本軍に協力しました。反日的な民衆とは命をかけて戦ったのです。1907年、韓国軍の解散により各地で反乱が起きたときも、日本医つき積極的に反乱の鎮定に強力しました。
一進会は最盛期には100万人を号していました。しかし、あまりにも急進的で、日本側で併合に反対する2代目総監の曾禰荒助と次第に確執が生まれ、反日的民衆との争いもあり、急激に会員が減少しました。
1909年ごろになり、併合やむなしの空気が強まると一進会は合邦についての上奏文、請願書を出し、韓国併合に火をつけたのです。
さて、韓国併合により初代の総督に就任した日本の寺内正毅は、朝鮮人参政権を認めず、すべての政党に解散を命じました。日韓合邦に命をかけた一進会も解散されたのです。
合邦後の政体について、李容九は、連邦形式を考え、彼の同志であった宋秉筇は日本の県のような形を考えていました。2人とも参政権が拒否されるなどとは夢にも考えていなかったのです。
李容九は新郎と憤激により病気となり、爵位を拒否しました。死後には勲一等を叙勲されましたが、決して喜ばなかったと思います。また、このことは、一進会のみならず韓国人すべての人の怒りを買い、今日の反日感情の源泉のひとつになったのです。