じじぃの「科学・芸術_642_朝鮮から見た日韓併合」

歴史認識 韓国併合日韓併合)の真実 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=GO2936BDZF8
[1895年 乙未事變] __ 小日本血染朝鮮皇宮,震驚全韓國 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?time_continue=11&v=MI7ljV3PLaI
 閔妃事件

閔妃事件とは何なのでしょうか。 2010/4/26 Yahoo!知恵袋
回答
朝鮮王朝では、王妃は「国母」と呼ばれていた。実態や真相は別にして、「日本人が朝鮮国の母を殺した」というように、現在のほとんどの韓国人及び在日韓国・朝鮮人に信じられている。親日派韓国人でも疑いの余地がない事実と思われているようだ。
ところが、閔妃殺害の現場に居合わせた高宗や純宗が残している発言では、閔妃朝鮮人が殺した、と記録されているのだ。純宗は犯人の個人名まで挙げている。事件後、日本に亡命したその韓国人も「私が閔妃を殺した」という証言を残している。実際に主犯格の朝鮮人は韓国で処刑されたり、高宗が送った刺客に暗殺されている。
日本側は、閔妃殺害に日本人が関係していることは認めているようだが、日本人が直接手を下したという点については、認めていない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1040022450
『誰も書かなかった 日韓併合の真実』 豊田隆雄/著 彩図社 2018年発行
朝鮮から見た日韓併合 より
それでは、朝鮮側からすると、日韓併合はどのように映ったのだろうか?
まず押えておくべきことは、朝鮮半島へ近代化の波が押し寄せるなかで、当の朝鮮の統治者たちは、有効な手を打つことができずにいたことだ。
その原因の1つは、朝鮮王朝の腐敗である。19世紀半ばの朝鮮半島で実験を握っていたのは、国王高宗の妻閔妃だ。もともとは、高宗の父である大院君が政権を把握していたが、閔妃が大院君に追放された有力な官僚や開花派勢力の一部に勢力を取り込んだことで、気づけば大院君は政権を乗っ取られ、政府は閔氏一族が支配する腐敗の巣窟と化していた。
閔妃政権の特徴は、近代化を目指しながらも一族の利益を優先したことにある。
大院君はキリスト教を弾圧するなど排外的だったが、閔妃政権は開国路線を突き進み、日本の後援を得て近代化を図ろうとした。しかし、開国に伴う物価上昇や相次ぐ増税によって庶民の生活は困窮し、近代化の恩恵を受けるのは閔氏一族ばかり。
しかも、朝鮮はただでさえ、排外的な空気が充満していて、近代化に反発する声が大きかった。1871年に朝鮮を開国させようとして失敗したアメリカのロー公使は「朝鮮はペリー提督出向前の日本よりもいっそう厳しく鎖(とざ)された国土である」と評すほど。その空気が簡単に変わることなく、外国への反発と同時に、近代化を図る政府への反発も強まり、義兵運動が活発化することになる。
そんな庶民の不満をよそに、閔妃一族と大院君、さらには大院君の跡を継いだ高宗による権力闘争は続いた。閔妃政権による近代化改革が失敗したのちも両者は対立し続けたが、いずれも外国に頼った近代化を目指した点では共通していた。
だが、ロシアをはじめ、日本やイギリスなどは朝鮮のためではなく、自国の利益のために朝鮮を支援したのだから、当然軋轢(あつれき)が生じることになる。しかも、朝鮮はその時々に力の強い国につくばかりで一貫性が欠けていたため、近代化は自主性を欠いた中途半端なものとなった。
大国に挟まれた朝鮮政府からすれば、近代化に遅れた以上、いろんな国に庇護を求めて必死に動き回る意外、手は残されていなかったのかもしれない。しかしその結果、東アジアの勢力図は何度も入れ替わった。この時期の東アジアは、朝鮮をめぐって混乱に陥っていたといってもいい。
日本が日清戦争日露戦争に踏み切った原因の1つも、朝鮮半島の不安定な情勢にあった。閔妃が清、日本、アメリカ、ロシアと次々に接近する国を代えたり、高宗自身が近代化を拒んだり、義兵運動や農民運動を防ぐことができなかったりしたことで、朝鮮の独立が脅かされることを日本は焦った。
しかしその焦りが、強硬策へとつながっていく。日清戦争後、日本は親露的な態度を示した閔妃を殺害し、親日派にテコ入れして内政干渉を強化する強気な策をとっていくのである。当然ながら、朝鮮における日本への反発はさらに高まっていき、義兵運動が増えていった。
前述した通り、日露戦争前後の日本による保護国化政策は、そうした情勢不安の解消のために考えられたものだが、保護国化はかえって朝鮮の政情不安を招くことになる。日露戦争勝利後の1905年11月17日、日本が朝鮮と第二次日韓協約を結んで朝鮮の外交権を掌握すると、皇城新聞は条約終結反対を訴え、韓国政府高官が日本に抗議して自決するなど、反対派が大きく抗議したのだ。
なぜこのような反発が起きたのだろうか? それは、これまで朝鮮の独立を唱えてきたはずの日本が、独立とは正反対の保護国を決めたからである。高宗や閣僚が条約調印に反対していたこともあり、独立が日本によって侵害されたと思われても、無理はなかった。
こうした反対運動は、ハーグ密使事件後にさらに拡大した。事件後、日本は韓国政府に「第三次日韓協約」を結ばせ、朝鮮の内政権を掌握して軍隊を解散させ、司法、警察権をも手中に収めたが、一部の軍人が民衆蜂起に加わり、半日武装闘争や抗日ゲリラなどで抵抗するようになったのだ。
初代総監・伊藤博文の考え より
こうした時期に朝鮮半島統治を最前線で指揮したのが、明治政府の功労者・伊藤博文だ。1905年、伊藤は第二次日韓協約に元すいて設置された総監府の初代総監に就任し、朝鮮に赴任していた。天皇の名代として総監になった伊藤は、激化する義兵運動を軍隊によって鎮圧させ、治安の維持を図ろうとした。
しかしこの伊藤が1909年、ハルビン駅で民族主義者の安重根に暗殺されるとという悲劇が起こる。安はその場で逮捕され、翌年、旅順で処刑された。安が伊藤を暗殺したのは、日本が約束を破って朝鮮を保護国化したことが理由の1つだ。それだけ、当時の朝鮮の人々は日本による保護国化に反発していたのだろう。
なお、日韓併合反対派の伊藤が暗殺されたことで日韓併合が早まったと言われることがあるが、それは誤解だ。確かに伊藤は総監時代の前期、日韓併合に反対していた。それは、植民地経営にコストがかかることを懸念していたからだ。伊藤としては、朝鮮が自治をできるよう自立するまでは、一時期に日本の保護国にした方がいいと考えていた。