じじぃの「歴史・思想_630_逆説の日本史・韓国併合への道・安重根」

世界平和を夢見た英雄、安重根

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8ox2psbd0bQ

安重根の晩年を描いたミュージカル「英雄」のオーディションが今月26日に開始…今年12月と来年3月の上演に向け

2022年 wowKorea
公演制作会社ACOMが26日、ミュージカル「英雄」の出演者オーディションを行うと発表した。
「英雄」は安重根(アン・ジュングン)の伊藤博文暗殺100周年を記念して2009年に制作・初演されたミュージカル作品だ。安重根の生涯最後の1年間に焦点をあて、祖国のために犠牲となった愛国家としての姿と、自身の運命の前に苦悩する人間的な姿を描いている。同作品はこれまで「韓国ミュージカル大賞」をはじめとする合計18の賞を受賞している。
https://www.wowkorea.jp/news/enter/2022/0126/10332893.html

安重根

ウィキペディアWikipedia) より
安 重根(あん じゅうこん、朝鮮語読み;アン・ジュングン、1879年 - 1910年)は、大韓帝国のテロリスト。本貫は順興安氏。

開化派の流れを汲む天主教徒であり、華夷秩序を主張した旧守派及び東学党、その後継たる天道教及び一進会とは終生敵対したために、民族主義者としての立場は不明確で、生前に本人が明確に主張していたのは「韓国の独立」である。
親露派との関係性は不明。韓国の民族主義で象徴的な位置づけとなったのは、大韓民国の建国以後 であり、1909年10月26日に前韓国統監の伊藤博文北満州ロシア帝国が権益を持つハルビン駅構内で襲撃した。ロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡され、1910年3月26日に処刑された。

●生い立ち
安の生家は資産家で、多数の土地から小作料を取って生活する大地主(地方両班)であり、祖父・安仁寿が鎮海県監を務めるなど、地元の名家でもあった。父・安泰勲(三男)は幼少から英才として知られ、科挙を受けて進士に合格し、京城で開化派の朴泳孝が選抜した70名の海外留学生に選ばれたが、1884年、甲申政変で開化派が失脚した影響で、学生も排斥され、立身の道を閉ざされた。この際に、仁寿は家財を売り一族を連れて信川郡青溪洞に移住して難を逃れている。また泰勲は朝鮮では当時西学や天主教と呼ばれていたカトリックに改宗し、洗礼名はペテロとした。

●留置中
安重根は、ピストルのほかに短刀も所持しており、逮捕時に押収された。尋問したロシア国境管区のミレル検事によると、安は最初は非常に興奮した様子だったが、自分の身元や犯行の動機について淡々と供述したと言う。ただしこの時「暗殺は自分一人の意志でやったことで、共謀者はいない」 との嘘の供述もした。
安は動機を「祖国のために復讐した」とだけ語った。ミレル検事は安の声の調子について「傲慢な声だった」と表現している。連行される際には伊藤は生きていたので、安は暗殺の成否を知らなかったが、この14時間の尋問の最中に伊藤の死亡を知った。安は暗殺成功を神に感謝して、事務室の壁に掛かっていた聖像の前で祈りをささげ、十字を切って「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生を我が祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べた。

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『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第1章 韓国併合への道 より

日露戦争での日本勝利に快哉を叫んでいた若き日の安重根

韓国系中国人として中国で育ち、日本に留学後日本に帰化した金文学(きんぶんがく)日中韓国際文化研究院長は、その著書『韓国人が知らない安重根伊藤博文』(祥伝社刊)で、安重根の家族について次のように述べている。

  父の安泰勲は反日どころか、親日政治家の巨頭である朴泳孝の、影響下の人物で、日本が好きで、留学は失敗したが、反日運動などに荷担した形跡は見あたらない。
  その父の影響もあったためか、安重根日露戦争の時、日本の勝利を心より快哉を叫ぶ。成人の安重根は、日本が率先して東洋の近代強国になったことに本気で期待感を抱いていた。
では、どのような期待感を抱いていたのか? 安は暗殺の1年後死刑に処せられたが、その間に獄中で書いた『東洋平和論』(未完)を分析した金文学は、内容を次のように要約した。

  A.旅順(りょじゅん)を中立化し、解放して日、清、韓が共同で管理する軍港にする。したがって3ヵ国が代表を派遣して、平和会議を組織する。
  B.旅順で平和会議を組織し、その会員を募集し、会費を募ることで、財源の確保をねらう。
  C.円満な金融のため、東洋の共同銀行を設立し、各国共用の貨幣を発行する。そして各国にその銀行の支店を設置する。
  D.日、清、韓3ヵ国の青年たちが共同の群団を作り、彼らに2ヵ国語以上の語学を勉強させ、友邦あるいは兄弟の観念を形成する。
  E.日本の指導の下で清、韓両国は商工業の発展を志向し、日本の経済的・文化的名近代性、先進性を活用する共同発展を提案する。
  F.日、清、韓3国の皇帝(指導者)がローマ教皇を訪問し、協力を誓い、王冠を戴(いただ)くことで、世界市民の信頼を受けるようにする。

解説しよう。
まずA、Bだが、日、清、韓の「連合」を望んでいた安が旅順を選んだのは、この地が東シナ海を押さえる重要な拠点でありロシア帝国も虎視眈々と狙っていたからである。
日露戦争の最大の激戦は、旅順要塞攻防戦であったことも思い出していただきたい。だからこそ、中立化して平和の拠点とすべきだと安は考えたのである。C、Dについてはとくに解説の必要もないだろうが、Eで「商工業の発展」「経済的な近代性」を日本に指導してもらう、というところは重要だ。朱子学の呪縛である。すでに述べたように、日本には渋澤栄一という天才がいて経済面における朱子学の呪縛から日本を解き放ってくれた。だからこそ、日本では欧米列強のように経済が発展した。だが、朱子学の呪縛が解けていない、清、韓両国では資本主義の発展が著しく遅れていた。だからこそ、他の項目では「みんなでやろう」という姿勢を示していた安も、この点ばかりは「日本の指導の下で」と言わざるを得なかったのである。先の話だが、この後に韓国は日本の一部となったため、その間に資本主義が定着した。ちょうど、清の領土だった香港が「英国の一部」となったため、その間に民主主義が定着したようにである。しかし清にはついに「渋澤栄一」は現われず、それを倒し中華民国を建設した革命家孫文ブルジョワ革命をめざし、健全な資本主義社会の建設を志向したものの最終的には失敗した。

「もっとも自分の考えに近い大物」を殺してしまった大いなる皮肉

話を戻そう。最後の項目Fについて、なぜローマ教皇が突然出てくるのかいぶかしく思った人もいるかもしれないが、これは安自身が熱心なキリスト教徒であったからだ。
さて、全体を読んでいただいた感想はどうだろうか。おそらく、多くの人が抱く感想は「なかなかいいこと言っているじゃないか」ではないだろうか。それに、この根幹にあるのはかつて勝海舟や、『脱亜論』を書き「転向」するまでの福澤諭吉、そして新しい世代では大アジア主義者の宮崎滔天などが主張していたことと同じである。これをアジアが団結して欧米列強に対抗すべきという考えとするならば、この時点の政府部内で、その思想にもっとも近いのは伊藤博文だろう。
同じ長州人でも、桂太郎は桂・タフト協定を結んだことでもわかるように「アジアの独立」より「欧米列強への仲間入り」を優先した男である。韓国併合についても、伊藤とはくらべ物にならない。韓国人のプライドを無視した強硬派であった。つまり安重根は、当時の政府部内ではもっとも自分の考えに近い大物を暗殺してしまったことになる。いったい、どうしてそうなってしまったのだろうか? それは、安が伊藤をどういう人物だと考えていたかでわかる。安は犯行後の取り調べにおいて15項目にわたる伊藤の罪を告発している。その「伊藤罪悪」は次のようなものである。

  一. 今ヨリ十年バカリ前、伊藤サンノ指揮ニテ韓国王妃ヲ殺害シマシタ。
  二. 今ヨリ五年前、伊藤サンハ兵力ヲ以ッテ五カ条ノ条約ヲ締結セラレマシタガ、ソレハミナ韓国ニトリテハ非常ナル不利益ノ箇条デアリマス。
  三. 今ヨリ三年前、伊藤サンガ締結セラレマシタ十二ケ条ノ条約ハ、イズレモ韓国ニトリ軍隊上非常ナル不利益ノ事柄デアリマシタ。
  四. 伊藤サンハ強イテ韓国皇帝ノ廃位ヲ図リマシタ。
  五. 韓国ノ兵隊ハ伊藤サンノタメニ解散セシメラレマシタ。
  六. 条約締結ニツキ、韓国民ガイキドオリ義兵ガ起リマシタガ、ソノ関係上、伊藤サンハ韓国ノ良民ヲ多数殺サセマシタ。
  七. 韓国ノ政治、ソノ他ノ権利ヲ奪イマシタ。
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  十五. 伊藤サンハ、韓国民ガ憤慨シオルニモカカワラズ、日本皇帝ヤ、ソノ他世界各国ニ対シ、韓国ハ無事ナリト言ウテ欺イテオリマス。
        (『安重根伊藤博文』中野泰雄著 恒文社刊)

この「伊藤罪悪」を熟読していただき、これまで私が述べてきたことと併せて考えていただければ、安重根という人物が高邁な理想家であるにもかかわらず、政治情勢の認識についてはきわめて不得意な人物であったことがわかるだろう。たとえば、一.の閔妃(びんひ)暗殺についても日本の責任であることは間違い無いが、伊藤はこういう強圧的なやり方とはほど遠い人間だったということを認識していない。また、そもそも韓国近代化のためには閔妃をなんらかの形で排除することが絶対に必要だったということを理解していない。だからこそ、その体制を維持しようとした軍隊の解散も「義兵」の掃蕩(そうとう)もやむを得なかった、ということもわからない。この点では朱子学の呪縛からまったく脱しておらず、崔益鉉(保守的な国粋主義者で衛正斥邪運動・抗日義兵闘争を指揮した)と基本的には同じである。
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このような見方こそ、当時の日韓両国の置かれた歴史的状況を公正に分析したものと言えるだろう。ところが何度も述べているように、現代の韓国でも伊藤博文は「率先して韓国併合を進めた極秋人」ということになっている。その大きな理由の1つに、この安重根の「英雄化」がある。ちょうど悪政で国を疲弊させた閔妃を「日本に殺された(殺害は事実だが)悲劇のヒロイン」として反日のシンボルに祀り上げ、その結果歴史学者ですら彼女の暴政がいかにひどいものであったか、どれだけ民衆を苦しめたか発言しにくくなってしまうという状況を作り上げたように、安を「救国の英雄」として祀り上げ、この「伊藤罪悪」もすべて正しいと強弁することによって、歴史の真相を覆い隠してしまう状況になっているということだ。
実は確かに理想家で人格者でもあった。未来なら日本のリーダー伊藤博文を暗殺したテロリストなど蛇蝎(だかつ)のように嫌われて当然なのに、死刑執行までの間の獄中で彼に接した看守たちの多くが彼の「ファン」になっている。それくらい安重根という男には人間的魅力があった。ただ、実行した伊藤暗殺は何度も述べているように、結局は韓国にも日本のためにもならないことであった。
しかし、韓国側では「安重根は立派な人間であった。だから伊藤暗殺も完全な正義なのだ」とする。この論理は間違っているのだが、正すのは非常に困難なのはおわかりだろう。