じじぃの「歴史・思想_142_韓国・堕落の歴史・壬辰倭乱・李舜臣」

ソウルの中心にある李舜臣

李舜臣 世界史の窓

朝鮮の水軍を率いて豊臣秀吉朝鮮侵略(1592年~)と戦った。
亀甲船を考案し、倭軍の水軍を次々と破り、その補給路を遮断した。一時罪を得て退いたが、再び前線に出て活躍したが、98年11月に戦死した。
https://www.y-history.net/appendix/wh0801-113.html

『韓国 堕落の2000年史』

崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行

悲劇の誕生李朝成立――何が日韓両国の歴史の明暗を分けたのか? より

朱子学の毒に、骨の髄まで侵された李朝

李朝は、中国の歴代王朝を滅亡させた理由が、党争と宦官制度と儒教による腐敗であったことを顧みることなく、明の悪い制度を、そっくり導入したのだった。そして国民を際限ないまでに苦しめ、残虐をほしいままにした。李朝のもとで、農民を中心とする国民は、人類史上で最悪の搾取を蒙(こうむ)ったといえる。
「党錮(とうこ)の獄」は、後漢桓帝(かんてい)の時代、166年に、宦官が跋扈(ばっこ)して反対党に属していた学者たちを投獄し、終身禁錮にしたことを指す。中国では同じようなことが繰り返し起こった。明朝を行き詰まらせたのは、宦官と腐敗した官僚による陰謀政治であった。その腐敗を批判した東林党と、非東林党の党派争いは有名である。
李朝でも、これとまったく同じことが繰り返されることとなった。
朱子学李氏朝鮮において、呪いとなった。朱子学は、周学、程学、張学、理学、新儒学とか、宋学など、いろいろな名によって呼ばれるが、明朝で全盛期を迎えた。朱子学はまったくの理論学であったために、その解釈をめぐっていくらでも争点を見つけだすことができる。それが党争を激化させる原因となった。
李朝は500年の長い年月にわたって、宮廷を囲む少数の両班と宦官たちが、党派抗争に耽(ふけ)り、国民を極貧のどん底まで追い込んだ。

李舜臣(イスンシン)も、党争の犠牲者

1592年と97年に、豊臣秀吉が明へ侵攻しようとして、朝鮮を通過することを要求して拒まれ、壬辰(イムジン)・丁酉(ジョンユ)倭乱(文禄・慶長の役)が起こると、李舜臣が朝鮮海軍の総司令官に当たる水軍統制使として、大きな功績をたてた。
李舜臣は、後の日本の海軍兵学校で、イギリスのネルソン提督と並んで軍神として崇(あが)められた名将だった。日露戦争において、日本の勝利を決定づけた日本海海戦の英雄である東郷平八郎連合艦隊司令長官も、「李将軍と較べれば、とても私ごときは及ばない」と称(たた)えているほどである。
だが、李舜臣は今日でこそ、ソウルの中心街に銅像が立てられ、尊仰されているが、生前は、党争の典型的な犠牲者となった。
李舜臣は、壬辰倭乱において亀甲船(きつこうせん)を建造し、日本海軍を壊滅させたのだから、その勲功は絶大なものがあったはずだが、その功績が党人の間で激しい嫉妬心を招いた。その結果、元均の一派の中傷と謀略によって、暗愚な仁祖は、取り調べも裁判も行なうことなく、李舜臣を処刑することに決めた。
しかし、丁酉倭乱によって再び日本の侵攻に見舞われたために、李舜臣を白衣従軍(ペイジョングン)させた。白衣従軍とは官職を与えられずに、戦地へ赴くことであって、現在なら二等兵への落等処分に相当する。
当初は、元均が李舜臣に代わって水軍統制使に就任し、士気を執った。しかし彼は、日頃、放蕩の生活に耽(ふけ)っていたために無能であった。そのため豊臣軍に惨敗したなかりか、元均も戦死し、朝鮮海軍は全滅した。
元均の死後、李舜臣が再び水軍統制使に任じられた。彼は再度日本海軍を撃滅したが、戦闘中に流弾に当たって、その生涯を閉じた。