じじぃの「地下鉄サリン事件から25年・街から消えたゴミ箱!地下鉄の素」

あの日から消えたゴミ箱

駅のゴミ箱が復活しないのは、経費削減のため?

2012.07.24 ビジネスジャーナル
オウムが起こした地下鉄サリン事件は、社会に多大な影響を及ぼしたが、僕に直接影響があったのは、駅のゴミ箱である。
あの事件をきっかけに、テロ防止のためにと駅のゴミ箱がなくなった。最初は捨て口をテープで封鎖するだけだったが、いつしかゴミ箱自体が撤去されてしまった。
https://biz-journal.jp/2012/07/post_435.html

『地下鉄の素』

泉麻人/著 講談社文庫 2000年発行

新聞が漁れない! より

サリン事件以来、新聞を網棚に読み捨てるのも難しくなった。まわりの乗客から疑惑の視線が飛んでくる――といった話を前回書いたが、こないだ読み終え終えた新聞をホームのゴミ箱に捨てようと思ったら、ゴミ箱にフタがされているのである。
ダンボール紙で厳重なフタがされ、「地下鉄サリン事件以来、警戒のために…」なんて断り書きが張られていた。
なんというか、出すものを出せない、トイレをたらい回しにされているようなスッキリしない気分で、僕は投げ捨てようと思っていた新聞を、再びカバンのなかに収めた。
すべての電車ではないが、駅のゴミ箱を使えない、というのは、けっこう不便なものである。ゴミ箱にフタをしたからといって、ああいった犯罪を防げる、というわけではなかろうに。
サリン事件とは全く関係ないが、僕はふと”ゴミ箱の古新聞漁りの人々”のことを思い浮かべた。どこの駅にも、乗客が読み捨てた新聞や雑誌をゴミ箱から漁るオジサン、というのが存在していたいたものだ。彼らは、掛けがえのない楽しみを奪われて、放心しているのではなかろうか…。逃げ口を塞がれた化学実験のハツカネズミのように、ホームのゴミ箱のまわりを右往左往しているのではないだろうか。
ちょっと大袈裟鴨かも知れないが、人間、一旦しみついた習慣というのは、なかなか変えられるものではない。
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あのゴミ箱あさりの行為は、決してカネがなくて、カネをケチって新聞、雑誌を拾っているわえではなく、一種のクセというか、ホビー(趣味)の類いである、と考える。バリッとしたビジネススーツ姿の、一見して紳士風の男が、何かに憑(つ)かれたようにゴミ箱の新聞を漁っている光景を、何度も目にしたことがある。
隣の乗客の新聞を覗き見すると、その記事が妙に面白いものに思えるのと一緒で、おそらく、ゴミ箱のなかから採集した新聞というのは、売店で買ったものより、ずっといいのであろう。どぉいい、のかわからないけれど、なんとなくその「いい」の感じはわかる。前夜の食べ残しのカレーを翌朝食うと、妙に旨かった――という感覚に近い、ような気がする。

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じじぃの日記。
1995年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件から、25年が経った。
2018年に松本智津夫元死刑囚(教祖名 麻原彰晃)らの死刑が執行された。
一人の気違いが、多くの人の命を奪い、日本という国をゆがめた。

あの日から消えたゴミ箱。

「隣の乗客の新聞を覗き見すると、その記事が妙に面白いものに思えるのと一緒で、おそらく、ゴミ箱のなかから採集した新聞というのは、売店で買ったものより、ずっといいのであろう。どぉいい、のかわからないけれど、なんとなくその「いい」の感じはわかる。前夜の食べ残しのカレーを翌朝食うと、妙に旨かった――という感覚に近い、ような気がする」
前夜の食べ残しのカレーが、ゴミ箱とは何となく分かる。