じじぃの「歴史・思想_143_韓国・堕落の歴史・李朝・名君だった世宗王」

朝鮮最高の名君? 世宗さん 朝鮮史Part 7

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4DL5tH_8DZ8

済州島」をハングルで書くと

なぜ日本人は韓国に嫌悪感を覚えるのか (月刊Hanada双書) 2018/3/29 室谷克実 (著)

ケンチャナヨ文化 より

仏僧は漢字の素養があるはずだ。大統領だった廬武鉉(ノムヒョン)氏の没後にその墓を造る際、名だたる高僧が揮毫(きごう)した「廬武鉉」の文字を墓の盤石(フタになる部分)に彫り込んだ。ところがそれは、「慮武録」の「慮」の字が「とらかんむり」(虎)ではなく、「まだれ」(广)になっていた。
同じような笑い話は15年、済州島(チェジュド)でも起きた。韓国の広域自治体は、特別市(日本でいう政令市)と道に大別される。済州島は島全体が済州「道」であり、他の道より自治権限が多い「特別道」になっている。「島」も「道」もハングルで書けば「Lエ」(ト・ド)だから、ハングルで「チェジュド」と書いてあったら「済州島」なのか「済州道」なのか区別がつかない。

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『韓国 堕落の2000年史』

崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行

血で血を洗う日々の始まり――骨肉相食む、おぞましき500年史 より

「易姓(えきせい)革命」というクーデターのうまい口実

李成桂(イソンゲ)は、こうして(クーデター)国を盗むことに成功した。1393年2月15日に、明の許しを得て、国号を高麗から「朝鮮」と改称した。だが、そのために、かつての高句麗の領土だった遼東半島を奪回する絶好の機会を失ったうえに、その後、韓族は中国の属国となり下がって、萎縮する運命に陥った。
紅巾の乱で元(げん)の国内がガタガタになっているこの時こそ、高麗が一丸となってこれと戦えば、かつての国土を取り戻すこともできたのに、李成桂の利己心から、その機会は永遠に失われてしまったのである。
李成桂は王位を自分に禅譲した恭譲王も、追放した。王と王族である王氏一族を生きたまま海に葬って、皆殺しにした。王は、今日でも韓国の姓の1つである。
そして高麗朝のもとで国教であった仏教を廃して、「崇儒排仏」政策に逆転させた。中国の明を宗主国と仰ぎ、儒教を国教とした。朝鮮を朱元璋の属国にしたことによって、中国古来の悪弊を真正面から蒙(こうむ)った。
「易姓」という言葉が、中国の古典『史記』のなかに出てくる。これは中国に古くから伝わる政治思想であって、「国家は一姓の栄」と考えたから、新しい王朝が興(おこ)ることを指した。「易姓革命」は「天使は天命を受けて天下を納めるが、もし、その家――姓に不徳の者が出れば、別の有徳者が天命を受けて新しい王朝を開く」という思想である。
もちろん、「易姓革命」は国盗りに成功する者の野望を、もっともらしく正当化する説でしかない。中国人は今日の中華人民共和国でもそうであるが、悪行を美しい言葉によって飾り立てるのに、長(た)けているのだ。

例外的な名君だった第4代世宗(セジョン)

李朝第4代の王は、世宗大王と呼ばれている。太宗の三男である。
世宗は1418年に22歳で即位したが、賢明で学問を好み、内治、外交、文化など各方面に多大の治績をあげて、後世の学者によって王朝の基礎を強固にした名君と評価されている。
世宗は即位と同時に、「正音庁」を設置してハングル文字である「訓民正音(フンミンジョンオム)」を創製した。また、集賢殿を設置して国内の優秀な学者を集め、多くの書物を編纂させた。
世宗王自身も「月印千江之曲」という純ハングル文の詩を著(あらわ)しているが、仏の徳を称え、仏の恩徳が絶大であることを謳ったものである。
世宗王は、父王までの3代の王が仏教を徹底的に排斥して弾圧したのにもかかわらず、仏教に強い関心を寄せた。世宗は仏教の改革に務め、その書籍などを刊行し、科挙に僧科を設置して、仏教の発達にも寄与している。
さらに世宗の命によって、李朝の事蹟を歌に詠んだ「竜飛御天歌」が刊行された。全10巻にわたり、125章に分かれるが、まず中国の歴代の皇帝を賛美し、ついで李朝の事蹟を称えたものである。この「竜飛御天歌」と「月印千江之曲」が、世宗事蹟の双璧を成している。
そして『高麗史』を編纂させたほかに、三網行実図、八道地理誌、治平要覧、医方類聚などを編み、李朝500年間のなかで、もっとも治蹟があった王として評価される。
世宗は学者たちに依頼して暦書を編み、太陽時計、水時計、渾天儀(ホンチョンイ)など各種の科学器具を発明、製作させて、天体を測定した。また、日本に対しては歳遣船を使って、朝鮮と対馬の間の貿易と往来を許した。それに加えて三浦(3つの港)を開港し、倭館を建てることによって、自由貿易を勧奨した。三浦とは、釜山蒲、斎蒲、塩蒲の3港のことである。
世宗25年に当たる1443年には、歳遣船の数が51隻に増えたが、時には歳遣船を2、3隻追加することによって和信政策をとり、外交面でも尽力した。
世宗王は李朝の歴代の王のなかで、例外的な名君であった。逆にこのことは、中国と同じように政権に継続性がなく、お上(かみ)一人の意思によって、国のありかたそのものが変わることを示している。