じじぃの「人の死にざま_1590_純宗(朝鮮王)」

純宗 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RSsmGL1A4GU
李垠(純宗の弟)と梨本宮方子

純宗 (朝鮮王) ウィキペディアWikipedia) より
純宗(じゅんそう、スンジョン、1874年3月25日(旧暦2月8日) - 1926年4月24日)は、大韓帝国第2代皇帝(在位:1907年7月20日 - 1910年8月29日、李氏朝鮮から通算して第27代君主)。韓国併合後は大日本帝国の王公族として初代李王。姓は李(イ)、名は坧(チョク)、字は君邦(クンバン)、号は正軒(チョンホン)。諡号は文温武寧敦仁誠敬孝皇帝。在位時の年号をとって隆煕皇帝(りゅうきこうてい、ユンヒファンジェ)と呼ぶこともある。
光武11年(1907年)7月20日、高宗がハーグ密使事件により日本の意を受けた李完用らに迫られて譲位したため、ただちに即位したが、親日派勢力の傀儡に過ぎなかった。純宗には子がなかったため、皇太子には異母弟の英親王(李垠)が冊立された。
隆熙3年(1909年)に入ると日韓併合の動きが強まり、李完用総理は一進会などの親日派勢力の後押しを受けて日本政府との間で韓国併合の話を進め、隆熙4年(1910年)8月22日、日韓併合条約を調印。8月29日に両国皇帝の裁可をもって条約は発効して大韓帝国は滅亡し、日本の朝鮮総督府の統治下に入った。
併合後の李坧は、京城府の昌徳宮に住み、王族として李王に封じられた。大正15年(1926年)4月25日、52歳で薨去した。日本の王公族昌徳宮李王坧として6月10日に朝鮮王朝の伝統に則って国葬が執り行われた。国葬日には6・10万歳運動も起こったが、3・1独立運動の規模には及ばなかった。御陵は裕陵である。
李方子 ウィキペディアWikipedia) より
李 方子(り まさこ、1901年(明治34年)11月4日 - 1989年4月30日)は、日本の元皇族。梨本宮家に生まれ、旧大韓帝国の元皇太子で日本の王公族となった李垠の妃。
夫妻は大韓民国の初代大統領であった李承晩により帰国を妨げられたまま、李垠が1960年(昭和35年)に脳梗塞で倒れる。李承晩退陣後の1963年(昭和38年)11月21日、朴正煕大統領の計らいで夫妻はようやく帰国を果たす。夫妻の生活費は韓国政府から支出され、昌徳宮内に住まうこととなった。1970年(昭和45年)、李垠と死別した。

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『韓国人に教えたい 日本と韓国の本当の歴史』 黄文雄/著 徳間ポケット 2013年発行
日韓併合は韓国に何をもたらしたのか (一部抜粋しています)
「日本に合邦されなければ、韓国はどんな国になっていたであろうか」
これは韓国人が日本人によくぶつける質問の1つです。もちろん彼らの答えは決まっていて、
「西洋が200年かけて築いた近代化を、韓国は戦後20年で成し遂げた。これほど優秀な民族なのだから、日帝支配さえなければ、20世紀は韓国の時代になっていたはずだ」
ということになります。つまり、日韓合邦さえなければ、韓国はもっと発展し、優れた先進国になっていたということです。
ただ、私も韓国人学者に同じ質問をされたことがあり、そのとき私は、
「日本に合邦されなければ、韓国は中国かロシアの一部になっていた」
と即答しました。
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国家が一度解体されれば、たいていの場合、旧王族には悲惨な運命が訪れます。フランス革命で処刑されたルイ16世マリー・アントワネットはその1例ですが、帝政ロシア最後の皇帝となったニコライ2世とその家族のように、根絶やしにされることも珍しくありません。李氏朝鮮の祖である李成桂も、高麗朝の国王から王位を奪いその子孫もろとも皆殺しにしています。
李朝の王族も、たとえばロシアの属国となった場合、どんな運命をたどったでしょうか。イギリスがビルマをインドの属領に編入した際、ビルマ王室はかろうじて残ったものの、完全に傀儡状態にされています。仮に韓国が清の属国であり続けたとしても、はたして清の崩壊と辛亥革命という激震に耐えられたでしょうか。
日韓合邦後、韓国皇帝だった高宗は徳寿宮李太王、その子、純宗は昌徳宮李王として日本の皇族待遇を受けることになりました。純宗の弟である李垠(イウン)は、日本の皇族である梨本宮方子(まさこ)と結婚しています。国王と王室には150万円の歳費と皇室典範も与えられました。李垠の子である李玖(イグ)が2005年に亡くなり、李朝の直系は断絶したものの、その血統は21世紀まで残っていたことになります。
このような史実にもかかわらず、「日帝に国王を奪われた」と非難する韓国人は今も少なくありません。2002年に日韓共催となったサッカーのワールドカップで、韓国サッカー協会の会長は次のような発言をしています。
「もし、現在の韓国に国王が残っていたら、日本に天皇があるように、韓国政府の安定に何らかの好影響があるだろう。大統領だけなのは悔しい限りだ」
ロシアでは近年、革命で虐殺された皇帝が再評価されるようになっています。ブルガリア国王やアフガニスタン国王、スペイン国王など、革命で追われた国王が政界復帰する例もあり、韓国で王政を懐かしむ風潮があるのは不思議ではありません。
しかし、実際のところ、「日帝36年」の間、李朝の復辟(一度退位した王が再び即位すること)を望む声はほとんどなかったのです。もちろん戦後も、韓国国民が王室を再興することはありませんでした。結局、「日本に奪われた」というよりも韓国民に捨てられたのであり、日本批判の材料にしているだけなのです。