じじぃの「人の死にざま_1379_村井・秀夫(オウム)」

村井刺殺 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=PuPPHvrza2M
「村井秀夫はかく語りき」オウム真理教科学技術省大臣vs筑紫哲也 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=qRWvEZep1T8
プライムニュース 「地下鉄サリン20年の闇 警察vsオウム攻防58日 元警視総監語る舞台裏」 2015年3月20日 BSフジ
【キャスター】佐々木恭子、反町理 【ゲスト】井上幸彦(元警視総監)、古市達郎(元公安調査庁参事官 金沢工業大学教授)
20年前の3月20日に起きた地下鉄サリン事件。世界でも初となる地下鉄を舞台にした化学テロに日本中が恐怖し、犯行を起こしたオウム真理教麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚に対しては世間の厳しい目が向けられた。教団に捜査の手を伸ばしながら事件を未然に防げなかった警察を始めとする捜査当局は、当時どのような方針で教団と対峙していたのか…。
番組では、事件当時の警視総監と、事件後のオウム破防法適用審査に携わった公安調査庁参事官をゲストに迎え、20年たった今、改めてオウム真理教という犯罪集団とその捜査を検証すると共に、新たなテロの脅威が取りざたされる中、日本は地下鉄サリン事件の教訓をどう活かすべきなのか、議論する。
松本サリン事件ではオウム真理教の犯行という可能性は走査線上に浮かんでいたのか、どの段階でサリンがオウムと関わりがあると分かったのか、読売新聞の記事を見た時の状況について聞いた。
井上幸彦氏、「長野県警が一生懸命捜査していたが、オウムに結びつく痕跡がなく目撃者もいない中で第一通報者が疑われる状況が出てきてしまった」
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150320_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150320_1
村井秀夫 ウィキペディアWikipedia)より
村井 秀夫(むらい ひでお、1958年12月5日 - 1995年4月24日)は、オウム真理教幹部。大阪府出身。ホーリーネームはマンジュシュリー・ミトラ、ステージは正大師。省庁制が採用された後は科学技術省大臣だった。教団では麻原に次ぐナンバー2、科学技術部門最高幹部と見られていた。
【刺殺事件】
1995年4月23日に東京都港区南青山の教団東京総本部前で指定暴力団山口組系羽根組の構成員の徐裕行に刺され、翌24日午前2時33分に死亡した。しかし後に羽根組長の証言により、徐は羽根組とは全く無関係な人物と判明。当時村井はオウムの覚せい剤部門の担当をしていたとされ、オウムと覚せい剤の取引をしていた暴力団からの口封じで殺害された可能性ありと、実行犯徐の背後関係を警察は徹底捜査するも暴力団の詳細をつかめず組織の特定がされなかった。

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三つの墓標―小説・坂本弁護士一家殺害事件 佐木隆三/著 小学館 2002年発行
山陰路の6人 (一部抜粋しています)
1989年11月8日(水曜)午後6時ころ、鳥取県境港市の美穂湾に面した岸壁に、ビッグホーン、ブルーバード、ボンゴワゴンが停車し、 早川紀代秀、村井秀夫、岡崎一明新実智光中川智正端本悟の6人がいた。
11月6日午後4時すぎ、富山県魚津市の僧ケ岳の中腹に、弁護士の妻の死体を埋めたあと、ドラム缶をビッグホーンに積み込み、ブルーバードと2台で麓へ下り、「中の又橋」の近くで待機したボンゴワゴンと合流し、富山湾をめざして急いだ。
3人の死体を予定どおり、長野、新潟、富山の3県に分けて埋めた以上は、富士山総本部で積み込んだ3個のドラム缶や、穴を掘った道具などを、すこしでも早く処分しなければならなかった。
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【1995年10月1日=中川智正の検察官面前調書】
1989年11月4日午前零時すぎか、あるいはもっと早い時刻かもしれませんが、岡崎一明さんが坂本弁護士宅の偵察から戻ってきて、私たちにいいました。
「おい、ドアがあいているぞ。3人いる」
それを聞いて、カギのかけわすれかなにかの事情により、玄関ドアがあいていることがわかりました。このとき岡崎さんが、坂本弁護士、奥さん、子どもの3人が部屋のなかにいるということをいったと、私は記憶しているのです。しかし、この段階で部屋のなかに入って確認したとは考えられず、なぜ「3人いる」といったのか、よくわかりません。
玄関内におかれたクツを見るなどして確認したのではないかと思うのですが、ひょっとしたら、「家族がいるようだ」というのを、「3人いる」とように、私が誤って記憶しているのかもしれません。
このあと、私と端本君の2人がビッグホーンのなかに残され、ほかの人たちは、クルマの外で相談していたように記憶します。そうして早川紀代秀さんか、村井秀夫さんが、尊師へ連絡して指示を受けたのではないかと思います。
こうして、どうも坂本弁護士宅へ押し入ることになりそうな雰囲気だったので、私と端本君が、2人で話した記憶があります。
「ほんとうにやるの。子どもがいるんでしょう?」
このときの端本君は、とてもイヤそうな顔をしていました。しかし、村井さんか早川さんが、「家のなかに押し入り、3人ともやる」といってきたので、家族全員をやることがわかったのです。この決定は、早川さん、村井さん、岡崎さんらできめられることではないので、尊師が指示したものとわかりました。
それから私たちは、午前1時くらいから、坂本弁護士宅に近い駐車場に入れた車のなかで、それぞれ仮眠したのです。その時点で、「午前3時に実行する」と聞いた記憶がないので、尊師の指示を受けた早川さんや村井さんたちが時刻をきめ、私や端本君に仮眠をとるように指示したのだと思います。
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1995年8月25日付で、「坂本弁護士の子どもを押えつけている様子」と題する略図を、私が作成しました。この略図に描いたように、近くにあったタオルケットを子どもの顔にかぶせ、その上から両手で口のあたりを押えて、2分か3分間くらい、力いっぱい押えつけたのでした。私としては、声を出せないためでしたが、「このままでは窒息して死んでしまうが、それでも仕方ない」と思っていました。
子どもの口のあたりを、私が押えつけているあいだ、すぐ隣で村井さんが、うつ伏せになっている奥さんの背中に馬乗りになって、両手で首を絞めていました。しかし、気管を押えているだけで、頸動脈を十分に絞めていなかったらしく、奥さんが「ゼー、ゼー」と、喉を鳴らしていました。
それで私は、子どもの口のあたりを押えながら、村井さんに助言したのです。
私 「違う。絞める場所が違う」
村井 「ここか、ここか?」
私 「頸動脈、頸動脈。首のわきを絞めなければ……」
村井 「わからん。あんた、やってくれ」
それで私は、子どもを押えていた両手を離しました。この時点で、口のあたりを押えはじめてから、2分か3分間くらいたっており、「もう泣かないだろう」と思ったからです。すでに子どもは、泣いたり、動いたりしておらず、死んでしまったか、仮死状態になっていたと思います。
このあと私は、村井さんと交代して、奥さんの首を絞めました。