じじぃの「人の生きざま_523_佐木・隆三(作家)」

作家の佐木隆三氏が死去 78歳 「復讐するは我にあり」で直木賞 2015年11月1日 Yahoo!ニュース
実際の連続殺人事件をテーマにし、映画化もされた「復讐するは我にあり」で1976年に直木賞を受賞した作家の佐木隆三(さき・りゅうぞう)さんが10月31日午前8時40分、下咽頭がんのため、北九州市の病院で亡くなった。78歳だった。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6179411
復讐するは我にあり(予告) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nTjDvEpbk_A
坂本弁護士はなぜ殺られた?」坂本弁護士一家殺害事件 オウム真理教 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dAdt-Wqdr-4
佐木隆三 ウィキペディアWikipedia)より
佐木 隆三(さき りゅうぞう、(本名:小先 良三)、1937年4月14日 - )は、日本の小説家、ノンフィクション作家で、北九州市立文学館名誉館長、九州国際大学客員教授。近年は法廷のルポルタージュで広く知られる。旧朝鮮咸鏡北道吉州郡生まれ。

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三つの墓標―小説・坂本弁護士一家殺害事件 佐木隆三/著 小学館 2002年発行
山陰路の6人 より
1989年11月8日(水曜)午後6時ころ、鳥取県境港市の美穂湾に面した岸壁に、ビッグホーン、ブルーバード、ボンゴワゴンが停車し、 早川紀代秀、村井秀夫、岡崎一明新実智光中川智正端本悟の6人がいた。
11月6日午後4時すぎ、富山県魚津市の僧ケ岳の中腹に、弁護士の妻の死体を埋めたあと、ドラム缶をビッグホーンに積み込み、ブルーバードと2台で麓へ下り、「中の又橋」の近くで待機したボンゴワゴンと合流し、富山湾をめざして急いだ。
3人の死体を予定どおり、長野、新潟、富山の3県に分けて埋めた以上は、富士山総本部で積み込んだ3個のドラム缶や、穴を掘った道具などを、すこしでも早く処分しなければならなかった。
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【1995年10月1日=中川智正の検察官面前調書】
1989年11月4日午前零時すぎか、あるいはもっと早い時刻かもしれませんが、岡崎一明さんが坂本弁護士宅の偵察から戻ってきて、私たちにいいました。
「おい、ドアがあいているぞ。3人いる」
それを聞いて、カギのかけわすれかなにかの事情により、玄関ドアがあいていることがわかりました。このとき岡崎さんが、坂本弁護士、奥さん、子どもの3人が部屋のなかにいるということをいったと、私は記憶しているのです。しかし、この段階で部屋のなかに入って確認したとは考えられず、なぜ「3人いる」といったのか、よくわかりません。
玄関内におかれたクツを見るなどして確認したのではないかと思うのですが、ひょっとしたら、「家族がいるようだ」というのを、「3人いる」とように、私が誤って記憶しているのかもしれません。
このあと、私と端本君の2人がビッグホーンのなかに残され、ほかの人たちは、クルマの外で相談していたように記憶します。そうして早川紀代秀さんか、村井秀夫さんが、尊師へ連絡して指示を受けたのではないかと思います。
こうして、どうも坂本弁護士宅へ押し入ることになりそうな雰囲気だったので、私と端本君が、2人で話した記憶があります。
「ほんとうにやるの。子どもがいるんでしょう?」
このときの端本君は、とてもイヤそうな顔をしていました。しかし、村井さんか早川さんが、「家のなかに押し入り、3人ともやる」といってきたので、家族全員をやることがわかったのです。この決定は、早川さん、村井さん、岡崎さんらできめられることではないので、尊師が指示したものとわかりました。
それから私たちは、午前1時くらいから、坂本弁護士宅に近い駐車場に入れた車のなかで、それぞれ仮眠したのです。その時点で、「午前3時に実行する」と聞いた記憶がないので、尊師の指示を受けた早川さんや村井さんたちが時刻をきめ、私や端本君に仮眠をとるように指示したのだと思います。

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『わたしが出会った殺人者たち』 佐木隆三/著 新潮文庫 2014年発行
復讐するは我にあり』の西口彰 より
なぜ犯罪小説を書くのか、きっかけは何だったのかと、質問されることがある。そういうときは正直に、次のように答えるしかない。
「1972年1月、復帰直前の沖縄で、機動隊員殺しの首謀者とみなされて琉球警察に逮捕されました。当時34歳でコザ市(現・沖縄市)に住み、沖縄の復帰問題に関心をもち、基地反対闘争のルポルタージュなどを書き送っていたころで、殺人者あつかいされてショックを受け、犯罪に目を向けたのです」
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1966年、アメリカの小説家トルーマン・カポーティが、59年11月に中西部のカンザス州で発生した一家4人惨殺事件を取材し、「ノンフィクション・ノベル」と造語した『冷血』が、世界的なベストセラーになった。67年4月、邦訳が新潮社から出版されて、わたしも新鮮な刺激を受けていた。このとき思い浮かべたのが「西口彰連続殺人事件」だった。
1963年10月、福岡県京都郡苅田町で専売公社のタバコ集配車を襲い、2人を殺して現金27万円を奪った西口彰(当時37歳)は、強盗殺人で全国指名手配された。しかし、逃亡先の静岡県浜松市で貸席の母娘を殺して金品を奪い、さらに東京都豊島区で老弁護士を殺した。この5人殺しのさなかに、広島・千葉・栃木・福島・北海道などで詐欺をはたらき、64年1月に熊本県玉名市で逮捕される。
64年3月から福岡地裁小倉支部で裁判がはじまり、同年12月に死刑判決。西口は控訴したが、65年8月、福岡高裁は一審判決を支持。さらに上告したものの、66年8月に本人が取り下げて判決が確定し、70年12月、福岡刑務所の拘置支所で死刑を執行された。
わたしは高卒で八幡製鉄に就職して、20歳のころから小説を書いていた。北九州は同人雑誌のさかんなところで、せっせと発表しているうちに職業作家をねざし、27歳で退職してしまった。それが64年7月で、ちょっとした好奇心から小倉の裁判所へ行き、西口彰の公判を1回だけ傍聴した。あとで確認したところ11月16日の第7回公判で、被告人質問がおこなわれている。
逃亡中に「京大教授」「東大出の弁護士」と称して詐欺をはたらき、「知能犯をかねた殺人魔」とマスコミをさわがせた。被告席の西口彰は38歳で端正なマスク、法廷における言葉づかいもていねいだった。それがわたしには不気味に映り、1回きりで傍聴をやめていた。その最初の出会いから9年後の73年秋、「西口彰連続殺人事件」に取り組んだのである。
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今村昌平監督の映画『復讐するは我にあり』で、網元の父親が漁船の挑発に応じないので、海軍士官が地元民の前で罵倒し、その軍人に息子が棒切れで殴りかかるシーンがある。これが非行のはじまりと、今村監督は積極的に解釈しており、私も消極的ながら異論はない。いずれにしても、あのとき父親が取材に応じてくれなかったら、浮上しなかったエピソードだろう。
2007年4月、わたしは改訂新版『復讐するは我にあり』を弦書房から刊行した。