じじぃの「科学・芸術_117_高句麗・女真」

よくわかる日本と朝鮮半島の古代史【学校やNHKでは教えてくれない事実】 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8PxEN5lNrDk
 高句麗 (660年頃)

 金王朝 女真 (1200年頃)

「朝鮮は中国の一部だった」習近平氏から聞いたと、トランプ氏が発言。韓国で反発広がる 2017年04月20日 Huffington Post
これが習氏の実際の発言なのか、トランプ氏の誤解によるものなのかは不明だが、韓国では反発が強まっている。
http://www.huffingtonpost.jp/2017/04/20/korea-history_n_16121966.html
火病 通信用語の基礎知識
精神障害の一つ。世界で唯一、朝鮮民族のみが罹患するという、極めて特殊な精神病。
不安障害と鬱病、そして身体化症状が同時に発症する疾患であるとされ、米国の精神科協会は1996(平成8)年、この疾患を朝鮮民族精神疾患として公認した。
まず原因として朝鮮人の精神が原因の一つと考える説では、長年、支那の圧政に苦しまされて来た奴隷の歴史から、朝鮮人には強いストレスが蓄積し、それが病気となり遺伝子に刻み込まれ、後世へと伝えられたとする。
http://www.wdic.org/w/SCI/%E7%81%AB%E7%97%85
北朝鮮が「朝鮮半島統一・大高句麗国建設計画」を進め、韓国の富裕層は「韓国よ、サヨナラ」の動き 2013年9月10日 板垣 英憲
北朝鮮金正恩第1書記=元帥)が「朝鮮半島統一・大高句麗国建設計画」を進めていることを窺わせる動きが、このところ次第に顕著になってきている。
北朝鮮が建国65周年の9月9日、首都平壌金日成広場で金正恩第1書記が観閲して開催した民兵組織「労農赤衛軍」による軍事パレードが極めて穏やかだったのが象徴的だった。陸海空正規軍による大規模軍事パレードとは違い、武器などが登場しなかったからだ。
これには、世界支配層の意向に従い、極力武力を使わず、「対話」により「朝鮮半島統一・大高句麗国建設計画」を実現したいという金正恩第1書記=元帥の思いが強く滲み目出ているという。
http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/91b818565625d60754ea72932f5f2483
朝鮮民族の国家はいつごろからできてその国家の状況を教えてください。 2011/8/20 Yahoo!知恵袋
回答
歴史なんかインチキだから信じちゃいけません。高句麗漢民族の国なんてのは真っ赤な嘘で、扶余も含め、おそらくツングース系民族の領土だったとしか想像できません。たぶん古代満州族女真族系の領土だったんでしょう。
ただ、どこかの冊封下にあったにしろ…どこまで「朝鮮民族の国家」と言うかは微妙。日本史だって未だに卑弥呼って誰? 邪馬台国、どこにあったの? って具合で…唐に媚びて生き残ったとしても、新羅ぐらいが朝鮮民族の国家と言っていいのかも。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1269317867
同時にわかる! 日本・中国・朝鮮の歴史 小口彦太/著 PHP文庫 2012年発行
唐軍を三度までも撃墜! 高句麗の恐怖の独裁者・淵蓋蘇文 642年〜665年 より
●だまし討ちで政敵を大虐殺
高句麗の末期、内外で恐れられたのが淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)だ。この人物は『日本書紀』にも「伊梨柯須弥(いりかすみ)」という名で登場する。淵は泉のことで「いり」と読み、蓋蘇文は「かす(ふ)み」と読める。もし「伊梨かすみ」だったら、かわいらしい女の子みたいだが、実像は堂々たる髭面で刀を5本もさげた軍人だった。
淵蓋蘇文は大対盧(宰相)の子で、粗暴な性格のために王侯貴族にうとまれ、唐の侵攻に備えた長城建設の監督役をつとめていた。しかし、642年、閲兵式を口実に軍に招集をかけ、自分に敵対する100人以上の有力貴族をみな殺しにした。
このとき淵蓋蘇文は、主君の栄留王も殺している。なんとも残忍なことに、みずからの王の首をしめ。その遺骸を切り刻んで溝(どぶ)に捨てたという。

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『逆説の世界史 1 古代エジプト中華帝国の興廃』 井沢元彦/著 小学館 2014年発行
万里の長城が物語る漢民族 VS 遊牧民族の抗争史 より
中国の古代都市は、それが都市である以上、すべて城壁によって囲まれていた。諸国の首都は完全な城壁都市で、さらにその上に国全体を城壁で囲っていたのである。つまり、都市の城壁が内壁、国境線の城壁が外壁ということだ。そして中国を統一した始皇帝は、諸国ごとの国境線の城壁は廃止し、その代わりに遊牧民族の来襲を防ぐため、北川の草原地帯に面した城壁を1つに繋いだ。これが万里の長城である。
当時の万里の長城は、現在世界遺産に指定されているものとは大きく異なっていた。あのような煉瓦で覆われた立派なものではなかったのである。煉瓦で被覆されたのは明王朝の時代以降のものだ。古い時代のものと思われる長城の遺跡も一部見つかっているが、それは版築(板などの枠に土を入れて壁を造る土嚢の製造法)による高さ2メートル、幅が最大5メートル程度のものであった。要するに、馬(騎兵)が乗り越えられなければ、当面の役には立つのである。
中国大陸は北半分が遊牧民族の支配する草原地帯、南半分が農耕地帯の支配する田園地帯という特性を持つ。この南半分に本拠を置いた農耕民族である漢民族が、自分たちの国土を世界の中心つまり中国と称したのである。
従って、中国史とは遊牧民族と農耕民族である漢民族との抗争史でもあった。
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万里の長城が出来て、それが次の王朝に受け継がれていく中で、中国文明はそれまでやられっぱなしであった遊牧民族に反撃できるようになった。農耕民族の文明の安定性が、具体的に言えば定住における食糧やその他の蓄積が、遊牧民族に対する軍事的征伐を可能にしたのである。
始皇帝の秦を滅ぼして痕濃くされた、長安を都とした漢王朝の前期(前漢 BC202〜AD8年)は、組織された軍事力で匈奴を駆逐し、中国の領域をシルク・ロードの一角まで拡大した。しかしその後、遊牧民族が盛り返したため、後の唐王朝万里の長城を維持できなかった。
万里の長城を復活したのは、皮肉なことに農耕民族である漢民族の王朝ではなく、遊牧民族征服王朝として中国北部に成立した金王朝(1115〜1234年)であった。建国した民族の名は女真と表記された。男尊女卑の中国文化では「女」という字も差別的ニュアンスになる。
女真はもともと遊牧民民族であったが、漢民族の支配する中国の北半分に侵入しこれを奪ったのである。そのために漢民族の王朝である宋(960〜1127年)は南に移転し、「南宋(1127〜1279年)」と呼ばれるようになった。ところが、農耕地帯である中国に入った金王朝は、遊牧民族の勇敢さを失い軍事的には弱体化した。そこへ別の遊牧民族である蒙古が北から攻撃をかけたのである。そこで金は南宋を滅ぼし中国を統一することをいったん諦め、まさに皮肉だが、遊牧民族に対する防衛線である万里の長城を復活せざるを得なかった。