じじぃの「科学・芸術_264_満州国・五族協和」

満州 五族協和 計画経済 革新官僚 新京 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=_W1XFORIlVU
満州国 国会議事堂(国務院)

アジアの合衆国を目指して建国された満州国・・・日本の経済政策によってもたらされた繁栄と発展とは 2016/09/06 もも先生のお料理と時事問題
日本は、満州国建国の理念として、「五族協和の王道楽土」を掲げていました。(満州国の国旗↓)
五族とは、満州人、蒙古人、漢人漢民族)、日本人、韓人のことで、これら民族が一致協力して暮らせる国を目指していました。
また、王道とは中国古代より、武力を以って国を治める者を覇者、その方法を覇道といい、徳を以って治める者を王者、その方法を王道といいました。
王道楽土とは、アジア的理想国家(楽土)を、西洋の武による統治(覇道)ではなく、東洋の徳による統治(王道)で造るという意味が込められていたそうです。
http://s.webry.info/sp/oryouridaisuki.at.webry.info/201609/article_6.html
『世界の地政学的大転換を主導する日本』 渡部昇一/著 徳間書店 2016年発行
五族協和の「移民国家」満州国は世界史の例外 より
世界の移民の歴史を振り返って、もっとも人道的な移民政策をとったのは、私の知るかぎりでは満州国です。その意味においても、満州国というのは非常に独特な国家だったといえます。
前にも申し上げたとおり、清朝というのはシナ人の王朝ではなく、満州人の国でした。彼らは元来、騎馬民族でしたから、北京を占領しシナ本部を支配したとき、異民族であるシナ人たちを自分たちの故郷(満州)に入れることを悦ばず、そこを「封禁(ふうきん)の地」としました。満州にはシナ人を入れないことを原則にしたわけです。ですから満州はたいへんな過疎地のままで、それを見た気義理崇神が「ノーマンズ・ランズ」すなわち人間がいないところで、誰の土地でもないところ、と叫んだほどでした。
その清朝辛亥革命で倒れてしまいます。清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)である溥儀(ふぎ)は紫禁城から追い出され、北京で保護観察下に住んでいました。すると、北京に共産党の将軍がやってくるというので、殺される恐れが出てきた。そこで、砂塵濛々(さじんもうもう)たるある日、見張りの者たちも満足に見張りができなくなった隙を突き、溥儀はイギリス人の家庭教師サー・レジナルド・ジョンストンと2人して日本の公使館に転がり込む。これが満州国の発端となります。その後、天津の日本の租界に移されたところ、蒋介石の軍隊が清朝皇帝の墓を爆破して宝石や貴重品を盗み取ったという話を聞いた溥儀は心底からシナ人に憎しみを覚え、自分の故国へ帰りたい……と訴えたのです。
その満州は、清朝が倒れたらシナ人たちが勝手にどんどん勝手に入り込むようになり、馬賊張作霖の息子(張学良)などが占領するような状態でした。しかも、治安は見る影もない。そのため、日露戦争でロシアから受け継いだ権益に基づいて住んでいた日本人たちの安全も脅かされるようになりました。それを見るに見かねて立ち上がったのが関東軍です。かくして満州事変となったのです(昭和6年)。
満州事変についてはいろいろな見方がありますが、むずかしいことを抜きにしていいますと、1万の関東軍に朝鮮にいた日本軍の一部が加わった勢力が、なんと25万ものシナ人の軍隊をあっという間に追い払い、元来が満州の皇帝の直系である溥儀を満州国皇帝にしたというのがポイントです。
満州は元来が封禁の地でしたから過疎地でした。人間もあまりいない。そこで満州国をつくるに際して、大臣には満州人か清朝以来の忠臣を据えましたが、その下で実務を担当するセクションには日本人を入れた。
同時に、過疎地ではなんの産業も興せませんから、それこそ移民を入れる必要が生じた。そのときのスローガンが五族協和です。五族というのは現地人の満州族、それから日本人、シナ人、モンゴル人、朝鮮族です。この五族が揃って力を合せれば十分繁栄することができるとしたわけですから、五族協和こそは世界でも例を見ない、現地人を考慮した珍しい移民計画だったといえましょう。
前にピルグリム・ファーザース(アメリカに渡ったイギリスのピューリタンたち。ピルグリムとは、巡礼という意味。インディアンが彼らを助けた)の話をしましたが、アメリカ人はその後、インディアンを名誉大統領とか名誉州知事にしたでしょうか? 日本は満州族の溥儀をちゃんと皇帝にしています。大臣もみな満州人か清朝時代の忠臣。当時の世界を考えると例外的にりっぱなものじゃないかと、私は見ています。