じじぃの「人の死にざま_1747_島津・義弘(薩摩国の武将)」

島津義弘 関が原の戦い 島津の退き口 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Iq1A_O83llQ
島津義弘

島津義弘とは (シマヅヨシヒロとは) ニコニコ大百科 より
島津義弘」(しまづ・よしひろ 1535 〜 1619)とは、戦国時代に実在した最強戦闘集団「薩摩隼人」の中でも、
・生涯53度の合戦に参加し数々の規格外の武功を誇る軍神。
・医学・茶の湯・学問に秀でる一流文化人。
・敵・味方区別せず供養する慈悲深い勇者。
・家族を心から愛した愛妻家。
・いかなる苦境にあっても2歳年上の兄・島津義久を尊重し続けた君臣の鏡。
・共に囲炉裏を囲み寝食を共にする等家臣や兵卒を大事にした「この人の為なら死ねる」ランク戦国一位の男。
・某半島で20万の敵を7千で打ち破る等、敵・味方共に感動させた鬼。
関ヶ原で敵中突破を果たす等戦場で華々しく活躍しながらも長寿を全うし畳の上で死んだ名将。
・朝鮮出征に時を知るための猫(瞳孔を見る)を7匹連れて行き、生還した2匹を猫神神社に祀った。
と「マジか!?」と言いたくなる事実の数々に定評のある戦国最強の完璧超人。通称「鬼島津」「鬼石曼子」。

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林修今でしょ!講座◇特別企画「東大法学部・林修VS東大歴史学者本郷和人の三本勝負大河ドラマの主役にしたい本当にすごい偉人SP」 2016年12月27日 テレビ朝日
【プレゼンター】林修本郷和人 【学友】高橋英樹 宇治原史規 宮崎香蓮
今回は、歴史の新事実を学ぶ豪華2時間SP!林修と東大の日本史教授・本郷先生がプライドを懸けてプレゼン対決!『大河ドラマの主人公にしたい本当にすごい戦国武将』あまり有名ではないが、実はスゴかった武将や武士をプレゼンする大好評企画!今年は真田幸村、再来年は西郷隆盛が主人公として登場する大河ドラマだが、果たして林修が推したい偉人とは!? 教科書には載っていない魅力やエピソード、面白い裏話を熱く語る。
●「島津義弘」(本郷先生) vs「河井継之助」(林)
徳川家康真田幸村より怒れた男 島津義弘
島津義弘は戦で大将級の首を討ち取った武将。数多くの戦で活躍し、ついた異名が鬼島津だった。徳川家康真田幸村よりも島津義弘を恐れたという。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康島津義弘のついた西軍(豊臣軍)は敗北したが、義弘は家康に死をも覚悟させるほどの恐怖を植え付けた。
義弘は300人の兵で家康本陣をめがけて敵中を突破。義弘は合戦の最中に全く動かなかったが、西軍が敗走した瞬間に後ろに撤退せず、徳川の本陣めがけて突撃。
島津義弘は「敵の一番強いところはどこだ!」。本陣を割って撤退した。
島津義弘は「撤退するにも島津のやりかたがあるんだ」。
その時に使った戦法が「捨てがまり」。
捨てがまり・・・義弘は10人余りが敵の足止めのためその場に留まり、全滅するまで戦い続ける
一人一人が我こそは島津義弘なり!
全滅するが、又後から10人が前に出て戦う。
これを繰り返して、300人いた兵が80人まで減ったが、前進を止められなかった。

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『歴史の群像 3 決断』 黒岩重吾・他/著 集英社 1984年発行
島津義弘 我が誇り捨て難し 【執筆者】堺屋太一 (一部抜粋しています)
関ヶ原の戦騒】
「殿……。お味方、押し気味でごわずぞ……」
阿多盛淳は、分厚い胸を弾ませて、床几に掛けた老人に向って大声で叫んだ。
「ふーん。みななかなかにやりなさるのお……」
老人はおかしそうに呟いた。他人事のようにである。これが物見の戦況報告に対する唯一つの反応なのだ。
慶長5年(1600)旧暦9月15日辰の下刻(午前9時頃)。美濃関ヶ原の狭隘な盆地は、既に一刻近くも前から戦騒に包まれている。この国はじまって以来、最大の決戦が進行中なのだ。
だが、老人の表情は、この場に不似合なほどのんびりとしている。勇み立つでもなければ脅え戦くでもない。ふくよかな頬には、巨大な活劇を楽しむ観客のような微笑みさえ漂う。采も取らなければ太刀も持たない。兜だけは阿弥陀にかぶっているが、それも湿った風から剃り上げた頭を守るために過ぎない。
<流石じゃわい、我が殿は。未だ老いてはおわさぬぞ……>
阿多盛淳は、紅葉した頬をほころばした。幼少の頃から、この老人、島津惟新入道義弘に付き従って来た阿多盛淳はは、何度もこんな場面に遭遇している。いつの戦場でも、島津義弘は激することも脅えることもない。それでいて好機となれば烈火のごとく攻めかかる。その見事さには、ただただ感服するばかりだ。
阿多盛淳は、そんな島津義弘が大好きだ。常々、
「よき殿を持って俺は幸せじゃ」
と思い、他人にもいっている。この殿の側にいる限り、どんな苦戦の時でも負ける気がしないし、死ぬ心配もしない。たとえ死んでも怖くはないような気分になる。それは、30年前の肥前。肥後での小競り合いでも、2年前に明・朝鮮の20万人を迎え撃った泗川の戦いでも同じであった。そして今、天下分け目の大決戦でも少しも変わらない。主君義弘の態度と表情に変化がないからである。
激しい銃声と雄叫びと悲鳴の入り混じった騒音が一段と高くなった。
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関ヶ原合戦のあと、西軍に加わりながら生き残った大大名が3つある。上杉・毛利そして島津だ。だが、この3家の徳川との折衝はそれぞれに違った。世にこれを「上杉捨身・毛利哀願・島津強訴」といった。
事件の発端を作った上杉景勝は、いかにも思い切りよく捨て身の交渉を行なった。これに対して終始煮え切らずに自滅した形の毛利家はいい訳を並べて哀願これ務めた。だが、島津だけは理非をいい立てて本領保持を主張、一戦辞さすの態度さえ示した。結果は、上杉・毛利がそれぞれ所領を3分の1以下に削られたのに対して、島津だけは60万9千石と手付かずに保持し、徳川時代を通じて特別の重みに備えることになる。
あの日、断固として敵中突破に出た島津義弘の決断、誇りを捨てなかった覚悟がなかったならば、こんな結果にはならなかったであろう。