じじぃの「人の死にざま_1677_北条・泰時(戦国時代の武将)」


御成敗式目(ごせいばいしきもく) コトバンクより
貞永式目』ともいわれる。鎌倉幕府が,貞永1 (1232) 年に制定した武家に関する法律。 51ヵ条。
制定者は執権の北条泰時を中心に,評定衆のなかで法理に明るい太田康連らが加わった。承久の乱後,武士の所領関係の訴訟,特に地頭と領家の貴族社寺との争いが激増したため,成文化された法の制定が決意された。

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林修今でしょ!講座◇特別企画「東大法学部・林修VS東大歴史学者本郷和人の三本勝負大河ドラマの主役にしたい本当にすごい偉人SP」 2016年12月27日 テレビ朝日
【プレゼンター】林修本郷和人 【学友】高橋英樹 宇治原史規 宮崎香蓮
今回は、歴史の新事実を学ぶ豪華2時間SP!林修と東大の日本史教授・本郷先生がプライドを懸けてプレゼン対決!『大河ドラマの主人公にしたい本当にすごい戦国武将』あまり有名ではないが、実はスゴかった武将や武士をプレゼンする大好評企画!今年は真田幸村、再来年は西郷隆盛が主人公として登場する大河ドラマだが、果たして林修が推したい偉人とは!? 教科書には載っていない魅力やエピソード、面白い裏話を熱く語る。
●「本田忠勝」(本郷先生) vs「北条泰時」(林)
本郷先生は57戦無敗という忠勝の最強武将ぶり、織田信長豊臣秀吉徳川家康を惚れ込ませた豪傑伝説を猛アピール。一方、林は「武家史上最高」だという泰時の政治手腕について、つまびらかにする。
北条泰時鎌倉時代前期の武将。北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。稀代の名執権と謳わる。
1183年、北条義時の長男として生まれた泰時。その泰時が11歳のころ、腹違いの弟が生まれた。泰時は長男だったが側室の子だったため、後継者になることができなかった。跡目争いに勝利した泰時に、弟は逆らい続けたという。
http://www.tv-asahi.co.jp/pr/contents/20161227_06953.html
『どこで日本人の歴史観は歪んだのか』 岡崎久彦/著 海竜社 2003年発行
偏向史観になる理由 (一部抜粋しています)
まず最初の偏向史観は薩長史観です。
このことについては、すでに大正時代に内藤湖南(歴史家)が、「実際世に行われている多数の歴史は多く薩長のために書かれたもので、いわゆる尊攘派の観方によって造られたものである」と言いました。たしかに細かい点は、いくらでもそういうことがあります。そういう細かい点ははなれて、一番大事なことは、薩長史観というのは、それまでの日本は封建主義で、真っ黒な闇の中に閉ざされていて、それを明治維新で朝日が出たように明るくなった、すっかり近代化した、そういう史観だということです。
それは、ある程度ほんとうですが、この薩長史観では、結局それまでの日本の千年間の歴史、特に徳川時代に三百年という非常に高度な文治社会を無視して、歴史を断絶しています。
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実は大正時代と昭和の初年までの大正デモクラシー時代には、どんな時代についても自由に話せた時期がありました。その当時の内藤湖南吉野作造などは、自由自在に日本の歴史について話せたのです。それがやがて駄目になり、そこから先は皇国史観になり、やがて軍国主義史観になっていきます。
皇国史観では、たとえば、豊臣秀吉は偉かったと書いています。しかし、そこに書いてあることは、秀吉がいかに皇室を尊崇したかということです。部分的にはそれは事実です。それまでは戦乱ですから皇室は貧乏していた。秀吉は、皇室にちゃんと領地をあげて、きちんと体面を保てるようにしてあげた。それは確かにそうですが、だから豊臣秀吉が偉大だというのはおかしい。豊臣秀吉は一番低い身分から身を起こして、全国を統一した。その能力たるや大変なものであり、それが偉いのです。皇室を尊崇したから偉いというと、歴史や人物論の本質が見えなくなってしまいます。
北条時代の善政をした北条泰時(やすとき、1183 - 1242)は、御成敗式目など法制度を完備した大変に立派な人として日本の歴史に残る大政治家です。歴史書に泰時よると、泰時は、承久の乱で京都に攻め上る時に、天皇を敬わなければいけないと言っています。その部分だけを引用して、泰時は偉かったということになるのが皇国史観です。
これのちょうど裏返しとして最近のテレビの連続ドラマでは、戦後の平和主義偏向史観が見られます。
たとえば、徳川家康はただ平和を追求したと、そればかりを褒(ほ)める。これはほんとうかどうかはわからない。確かに家康は徳川三百年の太平を開きました。しかし平和を追求するために豊臣氏を滅ぼしたのかどうかはわかる由もない。三百年の歴史の政治の基を開いた偉大な政治家だけれども、平和主義者であったとは断定できないでしょう。
それからもっとひどいのは北条時宗(ときむね)のテレビ・ドラマです。北条時宗が平和主義者になっている。これは歴史的には事実無根でしょう。皇国史観は史実の中の小さな部分をバランスを失して大きく取り上げていますが、戦後の平和主義史観は全くの荒唐無稽です。戦後の知的頽廃のほうがひどいわけです。これでは歴史とは何であるか、日本人が全くわからなくなってしまいます。