じじぃの「人の死にざま_1588_加藤・清正(安土桃山時代の武将)」

歴史ミステリー 熊本城 動画 YouTube
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熊本城

加藤清正 熊本城公式ホームページ
●清正の善政の功績は、今なお市民に慕われています。
文禄・慶長の役では主力として7年間戦い続け、秀吉の死後起きた関ヶ原の合戦では、石田三成(いしだみつなり)、小西行長(こにしゆきなが)らとの確執から東軍につき、小西滅亡後は肥後南半国も領して、実質ともに54万石の大大名となります。関ヶ原で東軍についたとはいえ、豊臣家に対する清正の想いは並大抵のものではなく、慶長16年(1611年)二条城(にじょうじょう)で秀吉の遺児秀頼(ひでより)と徳川家康(とくがわいえやす)を会見させることに成功しました。
これで豊臣家も安泰と思われたのですが、清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなりました。享年50歳。奇しくも生まれた日と同じ6月24日でした。豊臣家も清正の没後わずか4年で大坂夏の陣に破れてしまいます。
http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=448
『「歴史」の意外な結末―事件・人物の隠された「その後」』 日本博学倶楽部/編 PHP文庫 1998年発行
260年後に的中! 熊本城完成時の加藤清正の予言 (一部抜粋しています)
日本の名城の1つ、熊本城は、はじめは「隈本城」と呼ばれていたが、加藤清正(1562〜1611)が1601(慶長6)年から6年ほどの歳月をかけて改築し、大城郭となったのち「熊本城」と命名された。
この熊本城は、別名「銀杏城」。
改築工事で城が完成したあと、加藤清正が、天守閣の前にイチョウの木を2本植え、「このイチョウ天守閣と同じ高さに成長したとき、兵乱が起こるだろう」と予言したという話が伝わっている。
この清正の予言は、その260年後、ズバリ的中したのだ。
熊本城は、明治維新後、熊本鎮台が置かれていたのだが、1877(明治10)年2月15日、西南戦争が起こると、西郷隆盛(1827〜77)の軍は鹿児島から北上し、5日後、熊本城を包囲する。
おりしもこのとき、熊本城のイチョウ天守閣と同じ高さになっていたという。
西郷隆盛は、「包囲すれば、百姓町人の守る熊本城など、すぐに降伏するだろう」とたかをくくっていたらしいのだが、熊本鎮台の総司令官の谷干城と彼が指揮する百姓町人からなる鎮台兵は、予想外に強く、しかも熊本城は堅固だった。
熊本城は、政府軍が応援に駆けつけてくるまで、約50日間の籠城に耐えぬいた。これが、西郷軍の敗北の大きな要因になったといわれている。この攻防戦が日本城郭史上、最後の戦闘となる。
このあと西郷軍は鹿児島まで敗走し、城山で玉砕という最期を迎えた。