じじぃの「人の死にざま_1629_足利・義昭(室町幕府の将軍)」


足利義昭 ウィキペディアWikipedia) より
足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍。(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。
美濃国織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。
信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。

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『「歴史」の意外な結末―事件・人物の隠された「その後」』 日本博学倶楽部/編 PHP文庫 1998年発行
信長に追放された将軍・足利義昭のその後(一部抜粋しています)
室町幕府最後の将軍・足利義昭は、兄の13代将軍・義輝(1536〜65)が暗殺され、越前に逃れていたとき、織田信長に接近、信長の後ろ盾で将軍の位につきながら、のちに信長と対立して、ついに追放された人物である。
愚かで無力な名ばかりの将軍というイメージが強いが、なかなかどうして、武田信玄とひそかに連携したり、朝倉氏と浅井氏に信長攻撃をけしかけたり、毛利輝元をけしかけたりと、緻密な計画を立てては実行し、信長を悩ませている。
それでついに流罪になるのだが、その後、彼はどうしたのだろうか?
さすがに足利氏の時代は終わったとあきらめて、おとなしく余生を送ったと思ったら、とんでもない。
信長が本能寺の変で死ぬと、さっそく彼は、政界に返り咲こうと動きはじめた。
まずは木下藤一郎(豊臣秀吉)に接触しようとしたが返事がないので、今度は柴田勝家と組んで上洛を試みるが、勝家が滅んで藤一郎の天下になったため、将軍復帰の夢はついえる。
その後、彼は、なんと秀吉の一門として生き延びる。
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3年後、秀吉が大陸出兵のために肥前名護屋に兵を進めたとき、義昭も、なんと、「室町内府公」の称号を得て、軍装で出陣しているのだ。
義昭の最後は1597(慶長2)年、腫物が悪化して、大坂で死亡した。