じじぃの「人の死にざま_1239_上杉・謙信」

上杉謙信 - あのひと検索 SPYSEE
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川中島へ出陣じゃ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=5HtzD5lf2Yk
上杉謙信が築いた春日山城 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=y_A9mPCq-wY
林泉寺の楼門 「第一義」 画像
http://wakadanna.kazelog.jp/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2007/04/30/0704151_076.jpg
洛中洛外図屏風舟木本全景 月猫ツーリスト附属写真館
http://f.hatena.ne.jp/Lunacat/20100213120838
上杉謙信 ウィキペディアWikipedia)より
上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国(現在の新潟県上越市)の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、軍神と称される。
内乱続きであった越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、49年の生涯の中で武田信玄北条氏康織田信長越中一向一揆蘆名盛氏能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国能登国加賀国へ勢力を拡大した。
自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる。
【最期】
天正5年(1577年)12月18日、謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発した。天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だったらしい。しかしその6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城で倒れ、3月13日の未の刻(午後2時)に急死した。享年49。倒れてからの昏睡状態により、死因は脳溢血との見方が強い。遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め漆で密封した。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移された。

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歴史秘話ヒストリア上杉謙信の折れない心 〜義の武将 知られざる苦闘〜」 2013年10月17日 NHK
【語り】渡邊あゆみ
越後国を治めていた長尾家に生まれた上杉謙信。兄が家督を継ぐと、禅寺に修行に出されます。そこで待っていたのは、厳しい精神修養の日々でした。徹底して私利私欲を捨て、正義を重んじる心を教えられた謙信。その謙信が“義”こそ自分の生きる道であることを確信する事件が起こります。
上杉謙信織田信長、この2大戦国武将は、お互いに厚い友情を抱いていました。豪華な品を贈り合い、手紙を交わす両雄。一時は、信長の息子を謙信の養子にする話まで持ち上がります。しかし、その蜜月は突然、終止符を打ちました。一体何があったのか、知られざる友情と決別を描きます。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/180.html
10月17日 NHK 歴史秘話ヒストリア上杉謙信の折れない心 〜義の武将 知られざる苦闘〜」より
儒教の根本は5つの徳。「仁」 「義」 「礼」 「智」 「信」からなる。
義 ・・・ 私利私欲にとらわれないこと
美しき武将・上杉謙信 織田信長との友情が裏切りで・・・
謙信と信長。戦国きっての猛将2人は、かって互いを思いやる熱い友情で結ばれていました。
しかし、その蜜月の関係はやがて決裂。一転して「全面対決」へ突入します。2人の関係に何があったのか。
謙信と信長 知られざる友情と裏切り
謙信と信玄が川中島で激突した前年の永禄3(1560)年、現在の愛知県中央に位置する桶狭間で日本全国を驚かせる大事件が起こります。
尾張の国の一大名だった織田信長が東海地方一帯を支配する今川義元の大軍を打ち破ったのです。
この知らせを聞いた謙信は、「織田信長とやら、おもしろそうなやつじゃ」。
普段なら争いごとを嫌う謙信でしたが、信長はわずか2千の兵で2万5千の今川軍を破ったと聞き、大いに興味をそそがれていました。
そんな折、一通の書状が届きます。差出人はあの織田信長。一体どんな内容だったのでしょうか。
何と、信長は会ったこともない謙信に対して、タカをねだる手紙をよこしたのです。
越後の国司として、身分の上でも国力の上でも圧倒的上位にあった謙信。無礼ともいえる依頼に腹を立ててもおかしくない状況です。その謙信からの返事は。
謙信候、なんでこんなに親切なんでしょう。頼み込まれると嫌とは言えない性分の謙信。さらに、当時の微妙な外交関係の中で信長と利害が一致していたこともあり、その願いをすんなりと聞き入れたようです。
洛中洛外図屏風」は、そんな交流の中、信長から謙信に贈られたものでした。
互いに信頼し合っていた2人。ある時、謙信は信長からこんな提案を受けます。
信長は、結婚もせず子もいない謙信に対して、自分の息子をぜひ養子にと申し出たのです。
それは、謙信に対する服従の意を明確に示すものでした。しかし、信長が室町幕府の将軍 足利義昭を京都から追放したことで、この話は無くなりました。
有名無実の幕府を滅亡させ、信長自身が天下の主となる意思を明確にしたのです。しかし、この信長の行動は謙信の逆鱗に触れます。
自らの欲望のために、世の安穏、秩序を乱すことなど言語道断。もっとも謙信が忌み嫌う行いだったからです。
義の武将は8年にわたって大切にしてきた友情を捨て去ります。
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謙信は49歳の若さで亡くなりました。
林泉寺の楼門には謙信が揮毫(きごう)した自筆の額「第一義」が掲げられています。
何事にも「義」を一番に置くという謙信魂の言葉です。

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