武田信玄 - あのひと検索 SPYSEE
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国主に力無くば、国失いまする - 武田信玄 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=rU7qmw-Vc34&feature=related
武田晴信像(高野山持明院蔵) 画像
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Takeda_Harunobu.jpg
武田信玄 ウィキペディア(Wikipedia) より
武田信玄(たけだしんげん、1521年12月1日-1573年5月13日)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて甲斐武田家の領国を拡大した。晩年、西上作戦の途上に三河で病を発し信濃で病没した。
江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、また上杉謙信の良き好敵手としての人物像が形成される。
【武田信玄 (NHK大河ドラマ)】
『武田信玄』は、NHKが1988年1月10日から12月18日に放送した第26作目の大河ドラマ。全50回。主演は中井貴一。
戦国時代、四方を山に囲まれた甲斐国で、知謀策謀の限りを尽くし強固な家臣団と国造りで領土を広げ、“戦国最強の騎馬軍団”を率い織田信長・徳川家康も恐れた男、武田信玄。父を追放し我が子を死なせると言う家族・肉親の悲劇的関係に悩みながら独自の手法で信濃を平定、越後の上杉謙信と川中島で死闘を繰り広げる。「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」と言う信条で戦国時代を力強く生きた信玄の生涯を、大合戦シーンと豪華俳優陣で描く戦国絵巻。
【肖像画】
信玄の肖像画は同時代のものが複数存在し、和歌山県持明院所蔵の「絹本著色武田晴信像」、高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆「絹本著色武田信玄像」(重要文化財)が知られる。
近年、歴史学者の藤本正行は、
・39歳で出家し剃髪したにもかかわらず、後鬢が残されている。
・服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋(足利・畠山)である。
・(持病の)労咳や癌で死んだと言われる割には、身体がふっくらしている。
・右側に止まっている鳥は、当時甲斐ではあまり見られない鳥種であった。
・絵師は能登出身の長谷川等伯であることは間違いないが、この時期に能登から出た形跡が無いこと。
などの疑問点から、成慶院本の像主が畠山義続ではないかという説を出している。そのため、最近の教科書では成慶院本の画像は使われず、もっぱら持明院本の画像が採用されることが多い。なお、藤本によれば、東京都世田谷区の浄真寺所蔵の「伝吉良頼康像」こそが逍遙軒の描いた信玄像の忠実な模本であるという。
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『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか 【肖像画】が語る通説破りの日本史』 河合敦/著 光文社 2006年発行
武田信玄 (一部抜粋しています)
甲斐(山梨県)の武田信玄(晴信)は、信濃・駿河・上野国(こうずけのくに)へと急速に領土を拡張し、最晩年にはその版図が10ヵ国にわたる大(だい)大名にまで成り上がった戦国大名である。そのために名将のほまれ高く、また、その拠点であった甲斐国に堤防(信玄堤)を築くなど領民のために善政をしいたので、いまなお郷土では絶大な人気をほこっている。それは、山梨県を訪れたことのある人なら、よくわかるだろう。山梨県に入ったとたん、今でも商店街や街仲のいたるところに「信玄〜」とか「武田〜」といった名を冠した、さまざまな商品や土産物、幟(のぼり)があふれている。
もちろん武田信玄は他県の人にも知名度は抜群で、とくに1998年にNHKの大河ドラマになったことで、その人気はいっそう高まったといえる。ちなもに2007年には武田信玄の軍師・山本勘助が、大河ドラマの主人公となる。そんなわけで、今後ますます信玄は注目されていくことになるだろう。
ところで、みなさんがイメージする武田信玄の顔は、いったいどのようなものだろうか。
大河ドラマで信玄役を演じた中井喜一を思い浮べる人もあるだろう。だが、堂々たる体格をもち、禿頭に見事なもみ上げと口ひげをたくわえた眼光の鋭い男――そんな人物が脳裏に浮かんでくる人が多いはずだ。
じつは、そうした印象を抱かせるもとになっているのは、長谷川等伯(信春)の作とされる「絹本(けんぼん)着色武田信玄像(和歌山県高野山成慶院蔵)」である。
ところが近年、この肖像画は武田信玄を描いたものではないとする説が急浮上してきている。
この説を最初にとなえたのは、これまで定説とされてきた歴史人物の肖像画に次々と疑問を投げかけ、斬新な説をとなえてきた藤本正行氏である。
藤本氏は「武田信玄の肖像――成慶院本への疑問」(『月刊百科』308号)のなかで、この肖像画が信玄を描いたものだという確かな資料はなく、かつ、像主の身につけている太刀の目釘や笄(こうがい)の家紋が武田家の「四割菱(よつわりびし)」ではなく「二つ引両」を用いていることを根拠に、能登国の守護畠山(はたけやま)一族ではないかと推測している。主に長谷川等伯は戦国時代は能登で活躍していたため、そう推定したのである。
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なお、戦国史を専門とする笹本正治信州大学人文学部教授は、その著書『武田信玄』のなかで、・・・・
やはり、この肖像画が武田信玄でないことに賛意を示すとともに、若き日の武田信玄を描いたとされる、作者不明の高野山持明院所蔵の肖像画について「信虎や勝頼の画像と共通点は多い、信玄の実像はこちらだというべきである。実際、家柄のよい高貴な顔とされるのは細面で華奢な外形である。…(略)…中世以来の名家である信玄の顔も、持明院の画像のように細面であった可能性が高い」と述べている。
「細面で華奢な外形」の武田信玄というのは、私たちの抱く信玄のイメージにそぐわないし、そうした外面からは一般的に繊細な性格が想起される。そうなると、小説やドラマに登場するこれまでの武田信玄と、大いなるミスマッチになってしまうだろう。しかしながら、史実の武田信玄の性格は、意外なことに、確かに持明院の肖像画のほうに近いのである。
天文10年(1541)、武田信玄は、父信虎が駿河国へおもむいて領国を留守にしている隙に、突如クーデターを起こして武田家の家督をうばい、そのまま信虎を領国から駆逐してしまっている。それは、信虎という人物が残虐な暴君だったうえ、ひそかに信玄を廃嫡して次男の信繁に武田家を継がせようとしたため、領国の平和を考え重臣たちの協力を得て政変を決行したのだといわれている。
しかし、この巷説は近年否定されつつある。追放劇に信玄自身は深く関与しておらず、板垣信方や飯富虎昌ら武田家の重臣が主導して起こした反乱だったという見方が強くなっているのである。
もともと甲斐という国は、国人(土着の有力武士)たちが根をはる地盤であった。そこを苦心して信虎が平定したという事情があり、国人たちが武田の家臣団に組みこまれた後も、その自立性は非常に強かった。だが信虎は、こうした国人層の勢力をおさえて急速に集権化を推進するとともに、周辺諸国と大きな合戦をくり返したため、国人層の反発をうけることとなり、結果的に領国を留守にした隙に彼らに追放されてしまったというのが、どうやら真実らしいのである。
すなわち、信玄という人物は、家中の重臣層が、政変によって領内が動揺するのを防ぐため、神輿(みこし)として担ぎ出されたお飾りだったと考えていいだろう。
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武田信玄 Google 検索
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