じじぃの「人の死にざま_1641_北条・早雲(室町時代の武将)」

北条早雲

2016年2月14日 NHKスペシャル 司馬遼太郎思索紀行 「第2集 “武士”700年の遺産」 より
【ナビゲーター】香川照之
2016年2月、没後20年を迎える作家・司馬遼太郎
作品『この国のかたち』を読み解きながら、“日本人とは何か”に迫る。
●坂東武士の精神
国民作家と呼ばれた司馬太郎さんはこの壮大な問いに生涯向き合いました。
日本人を見つめ続けてきた司馬さんが最もこだわったキーワード。それは「武士」。
彼らは日本人の奥底に何を刻み込んでいったのか。
私たちは全国津々浦々を訪ね、司馬さんの思索をたどりました。
浮かび上がってきたのは明治時代を奇跡の近代化へと導いたという武士の遺伝子です。
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農地を耕作する農民でありながら土地を守るために武装した人々。
関東一円を指す坂東に一大勢力があったため、坂東武士と呼ばれました。
司馬さんが注目したのは家訓が広まる中で北条の武士たちの間に芽生え始めた「公」の意識です。
それは「名こそ惜しけれ」の「恩義のある人のために」という倫理観が戦国という時代の中で「この領国のために」と変わってきたことを指摘するものでした。
家訓をつくり領国の支配を盤石にした北条早雲
ほかの戦国大名に先んじて強大な勢力を築きました。
その後、甲斐の武田家や土佐の長宗我部家など各地で武士の精神を正す家訓や法令が次々と生まれていきます。
戦国という時代の中で公の意識は全国の武士たちへと浸透していったのです。
東武士に芽生えた「名こそ惜しけれ」という精神。
それは時を経て領国や地域のために尽くすという公の意識へと高まっていきました。
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160214
北条早雲 ウィキペディアWikipedia) より
北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。
小田原城奪取】
早雲は茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐に攻め込み、甲斐守護武田信縄と戦っている。同年9月、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取した。
【相模平定】
早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、その点から、戦国大名の先駆けと評価されている。『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定め、これは分国法の祖形となった。永正3年(1506年)に小田原周辺で指出検地(在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)を実施しているが、これは、戦国大名による検地として最古の事例とされている。
また、死の前年から伊勢(後北条)氏は虎の印判状を用いるようになっている。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を止める体制が整えられた。
早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになる。

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『学校では教えてくれない日本史の授業 悪人英雄論』 井沢元彦/著 PHP文庫 2015年発行
北条早雲――戦国大名第1号は「気配りの達人だった」 (一部抜粋しています)
数多(あまた)登場する戦国大名のうち、戦国大名第1号と言えるのは誰か、と聞かれたら、私は「北条早雲」の名を挙げるでしょう。北条早雲は、斎藤道三と並んで戦国大名の走りとして捉えられている人です。
異論はあるかも知れませんが、知名度と歴史的な存在感から見ても、戦国大名第1号と言うにふさわしい人物は、やはり私は北条早雲だと思います。
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歴史に名を残す人物というのは、何かしら人より秀でた部分を持っています。北条早雲の場合、それは何かというと、私は「気配り」なのではないかと思っています。
「早雲寺殿廿一箇条」を読むとよくわかりますが、彼は非常に気配りのできた人です。
誰に対しても、決して上から目線で語ることはありません。
たとえば、非番であっても何かあるかわからないのだから髪ぐらいは結っておけとか、朝は早く起きて使用人が手抜きをしないようにきちんと仕事をしなさいといったことまで書いています。
また、「馬泥棒」の話もそうなのですが、彼の逸話の中には、人情話が数多く残っています。たとえば、隣国が疫病に見舞われたとき、わざわざ人を派遣して看病してやったことがあったので、のちにその国に進攻したとき、「あの領主様ならいい」ということで領民たちが進んで早雲に従ったという話もあります。
彼は「早雲寺殿廿一箇条」の中でも「どんな相手に対しても嘘を言ってはいけない」と言っています。おそらくこの言葉通り、彼は人によって態度や言うことを変えることのない、正直な人だったのでしょう。
さらに、彼は褒美についても、若い人に褒美を与えるときには金銀を与え、中年以上の者には土地を与えるのがいいと言っています。その理由がまた彼らしいのですが、若い頃優秀な人の中には、年をとったときにダメになる人がいる、そうした場合に土地を与えていると取り上げなければならなくなるので怨みを買いやすい。だから最初から後腐れのないように、若いうちは褒美は金銀で与えるべきだと言うのです。
いかにも「気配りの人」らしい細やかな心配りです。