じじぃの「カオス・地球_338_日本人の精神構造史・第2章・武士道とは何か」

日本人の精神を支える倫理的な礎 武士道|新渡戸稲造

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=J5UfT1pniJg

Bushido The Soul of Japan


武士道 新渡戸稲造

ウィキペディアWikipedia) より
『武士道』(英語: Bushido: The Soul of Japan)は、1899年に刊行された新渡戸稲造による著書。原文は英語で書かれ、アメリカ合衆国で出版された。

日本の武士道を欧米に紹介する目的で1899年(明治32年)にフィラデルフィアで刊行された。思想家・教育家として著名な新渡戸が、日本人の道徳観の核心となっている「武士道」について、西欧の哲学と対比しながら、日本人の心のよりどころを世界に向けて解説した著作で、新渡戸自身の代表作となっている。内村鑑三の『代表的日本人』、岡倉天心の『茶の本』と並んで、明治期に日本人が英語で書いた著書として重要である。執筆は、カリフォルニア州モントレーで行っていた。

                    • -

すぐ忘れる日本人の精神構造史

【目次】
はじめに
序章 民俗学の視点で日本の歴史を見るということ
第1章 日本人のマインドは、縄文ではなく稲作から始まった

第2章 武家政権が起こした社会変化

第3章 信仰、道徳、芸能の形成
第4章 黒船来航、舶来好き日本人の真骨頂
第5章 敗戦、経済大国、そして凋落へ

                    • -

『すぐ忘れる日本人の精神構造史―民俗学の視点から日本を解剖』

新谷尚紀/著 さくら舎 2024年発行
生活が苦しくても「しかたがない」と我慢する、責任追及をせず問題点をふわっとさせたまま何となく進み、やがて忘れる――そんな日本人の思考や行動の傾向性は「稲作を土台に、律令制+荘園制+武家政権の時代」を経て培われてきたといえる。本書では日本の歴史の経歴、慣習の積み重ねを民俗学の視点から歴史を追跡することで、どうやってそのような日本人が育まれたのかを知り、これからの社会のあり方、日本人のあり方を考える。

第2章 武家政権が起こした社会変化 より

あいつぐ戦乱の中世

社会の固定化、服従する武士
徳川家康が覇権を握ってつくりあげていった江戸幕府幕藩体制下では、戦国の内乱の時代が終わり対外戦争もなく、平和の時代となりました。スペインとポルトガルによるキリスト教の布教を利用しながらのアジアの植民地化政策に対してそれを拒否し、日本の防御を固めたのも、長い戦乱の時代を経てきた戦国武将たちの経験からの知恵と判断であったと考えられます。それが必ずしも杞憂でなかったことを示したのが、キリスト教の信徒を中心とした島原(しまばら)の乱でした。

戦乱の時代が終わったことにより、領地争いをめぐって敵方との戦闘と殺害をおもな職能としてきた武士たちは、刀剣や弓射や騎馬などの武芸の鍛錬に加え、与えられた領地の経営のための政治や経済についての技能と学識を磨かなければならなくなりました。幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれています。これは将軍が諸大名との間に主従関係を結び、将軍が幕府の直轄領を約400万石(17世紀末)保有し、諸大名にそれぞれ領地を藩として給付し、安堵して各藩の経営ができるよう公認したものです。領地の石高が1万石以上の武士が大名と格付けされ、大名は将軍との親疎の関係から徳川氏一門を親藩、古くからの家臣を譜代、関ケ原の戦いの前後から家臣に加わったものを外様と分けられました。そして御三家の尾張には尾張徳川家、水戸には水戸徳川家を、譜代の伊井家には近江の彦根を、外様の伊達には仙台、島津には鹿児島を、などというように、要所には親藩・譜代を配置し、江戸あ京都から遠隔の地には外様を配置しました。このようにして大名の謀反を防ぐ方策を徹底させ、居城はひとつに限り、修繕も幕府の許可を必要とするなどして、「武家諸法度」によって厳しく統制しました。さらに大名には参勤交代を義務づけ、藩主は国元と江戸とを1年交代で往復することとし、正室や世継ぎの男子は江戸住まいとさせました。その往復の費用や江戸在府の生活費がかさみ、藩の財政に大きな負担をかけましたが、年始の礼や五節句には藩主は江戸城に総登城して将軍に謁見し、忠誠を誓うこととされました。

武士道とは何か
江戸時代に武士が武士らしくなくなっていく、そうした世相の中であらためて表れてきたのが、武士道という言葉でした。よく知られているのは、江戸時代前期に肥前鍋島(ひぜんなべしま)藩に仕えた山本常朝(やまもとつねとも、1659~1719)の著した葉隠(はがくれ)』の「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」でしょう。それは武士たるもの、いつも死ぬ覚悟で生きていれば、一生無事に過ごせるという教訓です。

源平争乱の時代から長く敵との殺し合いの中を生きてきた武士たちにとっては、たとえば『平家物語』にみるように、とにかく敵に討ち勝ち敵の首級をあげることが第1でした。ですからその目的を達成するためには、夜討ちもだまし打ちも非難されるべきものではありませんでした。むしろそれらは戦略のひとつであり、褒められるべきものであったのです。殺すか殺されるかという中にあった武士たちにとって、油断して不覚をとって敗死することが美徳であるはずはありませんでした。

のちの戦国時代でも同じです。武田信玄の家臣が書いたといわれる『甲陽軍艦(こうようぐんかん)』には、今川義元桶狭間(おけはざま)で織田信長に敗れて死んだとき、その義元の配下にあった松平元康(まつだいらもとやす、徳川家康)は、「計略いたすは昔が今に至るまで敵味方のならひなり。武略をつかまつりすますは、武士の一ほまれといふぞ。さてまた計略し倒さるるは、女人に相似たる侍が、二心を持ちてのことなり」といったと書かれています。計略や謀略を用いるのは当然であり、それによって勝つことは武士の誉である、それにだまされてしまうのは恥であり不名誉なことだというのです。

ですから、武士道というはむしろ、江戸時代の武士が政治権力をもつようになった時代に生まれてきたものでした。その早い例である『葉隠』が言っているのは、いつでも死ぬ覚悟をもつことこそが武士たる者の心得であるということでした。謀略やだまし討ちなどの中を生き抜いてきた先祖の武士たちのそれを山本常朝は嫌いながらも、やはりそれを忘れるな、という意味を含めていた言葉なのです。

しかし、次第に天下泰平の世となり、武闘よりも文治(ぶんち)の時代となりました。儒学の普及とともに、武士の社会的な倫理や道徳という意味で、士道などの言葉が使われるようになっていきました。ふだんから油断なく心身を鍛錬し、勤勉に務め、主君への忠義の心をもち、武士さしい教養を身につけること、というような道徳的な意味を、武道や士道という言葉がもつようになったのです。

そこでは儒学の影響が大きくありました。中江藤樹(なかえとうじゅ、1608~1648)の『翁問答(おきなもんどう)』や山鹿素行(やまがそこう、1622~1685)の『山鹿語類(やまがごるい)』、熊沢蕃山(くまざわばんざん、1619~691)の『集義和書(しゅうぎわしょ)』などでは、武芸と学問をともに修め、主君に仕え民を導き賊を防ぐという儒学の基本的な徳目の仁・義・礼・智・信という五常の徳を説くものとして普及していきました。

そしてこの士道という言葉は、武士だけでなく町人にも影響を与えました。
    ・

このように武道や士道など、「道」という考え方は、江戸時代の社会が醸成した、日本人の倫理観や道徳観のもとになっていくひとつの新しい流れだったのです。

そして、明治期になって武士だけの武士道というのではなく、日本人の倫理や道徳や勇気を表す言葉として武士道を世界に広めたのが、1899年(明治32)にアメリカで出版された新渡戸稲造(にとべいなぞう)の著作 Bushido The Soul of Japan でした。翌年には日本でもその英語版が出版され、のちに『武士道』の書名で刊行されて、いまではもっとも有名な著作となっています。

しかし、その新渡戸の本には、日本の歴史の中の実際の武士道についてはまったく書かれていません。ただ彼がアメリカ滞在中に、欧米の社会に向けて日本の道徳を説明するために、西欧の騎士道:chivalryに対比できるものとして武士道という言葉を使ったのでした。