じじぃの「科学・芸術_14_栗田定之丞と砂防林」

WWFジャパン セミナー「風力発電大量導入へ向けての挑戦」前編 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=v25bsaYzmmU
栗田定之丞

先人に学ぶ① 栗田定之丞 あきた森づくり活動サポートセンター
現在の能代市から秋田市までの120kmにわたる砂丘地一帯に植樹し、田畑や家屋が砂に埋められることのない黒松の砂防林を完成させた。
「栗田定之丞の死後も、栗田方式の植林法によって、黒松がうえられてゆき、江戸末期には、数百万本の松原が、秋田藩領の長い海岸をまもるようになった。これらの松原こそ、秋田藩の長城というべきものだった」 (「秋田県散歩」司馬遼太郎)
http://www.forest-akita.jp/data/sengin/kurita/kurita.html
NHKスペシャル 司馬遼太郎思索紀行 「第2集 “武士”700年の遺産」 2016年2月14日
【ナビゲーター】香川照之
2016年2月、没後20年を迎える作家・司馬遼太郎
作品『この国のかたち』を読み解きながら、“日本人とは何か”に迫る。
●司馬さんが注目した坂東武士の精神
司馬が注目したのは、鎌倉時代の武士が育んだ、私利私欲を恥とする“名こそ惜しけれ”の精神だった。
それは、武家政権が拡大する中で全国に浸透、江戸時代には広く下級武士のモラルとして定着したという。そして幕末、司馬が「人間の芸術品」とまで語った志士たちが、この精神を最大限に発揮して維新を実現させた。明治時代に武士が消滅しても、700年の遺産は「痛々しいほど清潔に」近代産業の育成に努めた明治国家を生みだす原動力となった。それが続く昭和の世に何をもたらし、どのように現代日本人へと受け継がれたのか。
「名こそ惜しけれ、恥ずかしいことをするな」。
●江戸中期「公の意識」をもった一人の下級武士
冬、厳しい季節風が吹きつける秋田の沿岸地域、その人物は江戸中期にこの地に生まれた。新屋地区(秋田市)は日本海からの強風が引き起こす飛び砂で壊滅的な被害を受けてきた地域だった。地元でその人物は今も英雄として語り継がれている。秋田藩藩士・栗田定之丞、藩からの収入は僅か15石、貧しい下級武士だった。
栗田が行ったことは、飛び砂の被害から地域を救うために延々80kmにわたって数百万本の松を植え、防風林をつくり上げたことだっった。
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160214
2月14日 NHKスペシャル 司馬遼太郎思索紀行 「第2集 “武士”700年の遺産」 より
国民作家と呼ばれた司馬太郎さんはこの壮大な問いに生涯向き合いました。
日本人を見つめ続けてきた司馬さんが最もこだわったキーワード。それは「武士」。
彼らは日本人の奥底に何を刻み込んでいったのか。
私たちは全国津々浦々を訪ね、司馬さんの思索をたどりました。
浮かび上がってきたのは明治時代を奇跡の近代化へと導いたという武士の遺伝子です。
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農地を耕作する農民でありながら土地を守るために武装した人々。
関東一円を指す坂東に一大勢力があったため、坂東武士と呼ばれました。
司馬さんが注目したのは家訓が広まる中で北条の武士たちの間に芽生え始めた「公」の意識です。
それは「名こそ惜しけれ」の「恩義のある人のために」という倫理観が戦国という時代の中で「この領国のために」と変わってきたことを指摘するものでした。
家訓をつくり領国の支配を盤石にした北条早雲
ほかの戦国大名に先んじて強大な勢力を築きました。
その後、甲斐の武田家や土佐の長宗我部家など各地で武士の精神を正す家訓や法令が次々と生まれていきます。
戦国という時代の中で公の意識は全国の武士たちへと浸透していったのです。
東武士に芽生えた「名こそ惜しけれ」という精神。
それは時を経て領国や地域のために尽くすという公の意識へと高まっていきました。
司馬さんは武士の間で育まれた公の意識の結晶とも言うべき一人の人物のことを詳しく調べています。
日本人を形づくった武士の典型。こんな人物です。
冬厳しい季節風が吹きつける秋田の沿岸地域。
その人物は江戸の中期にこの地に生まれました。
ここ新屋地区は日本海からの強風が引き起こす飛び砂で壊滅的な被害を受けてきた地域でした。
地元でその人物は今も英雄として語り継がれています。
秋田藩藩士栗田定之丞。藩からの収入は僅か15石。貧しい下級武士でした。
彼が行ったことそれは飛び砂の被害から地域を救うために延々80キロにわたって数百万本の松を植え防風林を造り上げたことでした。
しかし、防風林といっても松が育って効果を発揮するのは15年以上も先のこと。
日々の生活に追われる人々は定之丞の呼びかけに誰も耳を貸してくれません。
誰からも相手にされなくても定之丞は一人動き始めます。
松の苗が飛び砂で枯れてしまわないように、激しい砂でも育つ植え方の研究に没頭します。
浜辺の小屋にむしろ一つで泊まり込み8年もの間黙々と試行錯誤を続けました。
何の見返りもないのに地域のために尽くそうとする定之丞。
その姿に人々の意識が次第に変わり始めました。
当時の村の日記に、村人たちが徐々に協力し始めた様子が記されています。
定之丞は集落をまわって説得を重ね、自ら陣頭指揮して栗田方式の砂留め植林を進めていきました。
「ただで働いてくれまいか」と頼むので村人の不満は大きく、村人たちは定之丞をもじって、「ただ(無料)之丞」と呼ばれていた。
定之丞の姿に動かされた秋田の人々。
地域のためにという公の意識が庶民の間にも広がっていきました。
そして迎えた幕末・・・