じじぃの「未来をつくる君たちへ!磯田道史(大村益次郎)」

大村益次郎 - あのひと検索 SPYSEE
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シリーズ 未来をつくる君たちへ 〜磯田道史が語る大村益次郎 2011年11月12日 NHK
【出演】茨城大学准教授 磯田道史 【語り】一龍斉貞友
司馬遼太郎作品に登場する歴史上の人物から「生きるヒント」を学ぶシリーズ。2回目は、小説「花神」の主人公、大村益次郎村田蔵六)を取り上げる。幕末、長州(今の山口県)の村医者の家に生まれた大村は、大坂の適塾蘭学を学び、西洋兵学の第一人者となる。やがて、幕府と対立していた長州藩に登用されると、武士だけでなく、農民からの志願者も組織し、全く新しい軍隊を作り上げる。そして、合理的な戦略で旧式の幕府軍との戦いに勝ち、日本に明治維新をもたらす大きな役割を果たした。ベストセラー「武士の家計簿」で知られる歴史学者磯田道史さんは、大村の徹底した“合理主義”に注目している。そもそも合理的に考えるとは、どういうことなのか?そして、“合理主義”は果たして万能なのか?大村の出身地、山口の中学生との対話を通して、激動の時代を生き抜くための「道具」としての“合理主義”を考える。
http://www.nhk.or.jp/japan/pjyotei/prg_111112_4.html
大村益次郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
大村益次郎は、幕末期の長州藩(現・山口県)の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の1人。
長州征討と戊辰戦争長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)。
【生涯】
周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじ)字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓、の私塾咸宜園に入る。1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学しその後帰阪、適塾の塾頭まで進む。
嘉永3年(1850年)、父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵と名乗る。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代となり、大村は伊予宇和島藩の要請で出仕する。ただし宇和島藩関係者の証言では、大村は、シーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を尋ねるのが目的で宇和島に来たものであり、藩側から要請したものでないという。
大村は宇和島藩で西洋兵学蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行し、文政年間に出島へ来航したドイツ人医師シーボルトの弟子であった敬作から、シーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され蘭学を教える。イネは後年大村が襲撃された後、蘭医ボードウィンの治療方針のもとで大村を看護し、最期を看取っている。宇和島では提灯屋の嘉蔵(かぞう)(後の前原巧山)とともに洋式軍艦の雛形を製造する。ただし、わずかな差で国産初ではない(国産第1号はわずかな差で薩摩藩が先だったといわれている)。大村はこの謙虚で身分の低いほとんど無学の職人・嘉蔵の才能に驚かされたという。この頃村田蔵六と改名。
1858年3月19日には長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行うが、このとき桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。これを機に万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵。塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。文久元年(1861年)正月一時帰藩。西洋兵学研究所の博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。同年4月江戸へいったん帰り、文久2年(1862年)、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。江戸滞在時には箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周福澤諭吉大鳥圭介といった蘭学者や旧友とも付き合いがあった。
高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、大村にその指導を要請する。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により大村は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名。「大村」は故郷の字から、「益次郎」は父親の「孝益」の一字をそれぞれとっている。
このころ大村は精力的に明倫館や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授したが、特に彼の私塾であった普門寺は、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。ここでは大村はオランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した『兵家須知戦闘術門』を刊行、さらにそれを現状に即し実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成し、その教え方も無駄がなく的確であったという。
慶応2年(1866年)、幕府は第二次長州征伐を号令、騒然とした中、明倫館が再開される。桂小五郎は同年5月に藩の指導権を握り大村、高杉、伊藤博文井上聞多(のち井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。すでに3月13日大村は兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館で兵学教授を始めていたが、5月には近代軍建設の責任者となり、閏5月6日に大組御譜代に昇格、100石を支給され、名実共に藩士となる。
6月に戦闘が開始される。大村は石州口方面の実戦指揮を担当する。その戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なもので、旧態依然とした戦術に捉われた幕府側をことごとく撃破するなど、彼の軍事的才能が遺憾なく発揮されたものであった。
長州藩の旧知で蘭学者の青木周弼は大村を評して「その才知、鬼の如し」と語ったという。
慶応3年(1867年)討幕と王政復古を目指すために西郷吉之助、大久保一蔵ら薩摩からのによる働きかけが長州藩に行われた。
明治2年(1869年)6月2日戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允桂小五郎)、大久保利通と並び新政府の幹部となった。
当時の兵部卿兵部省の最高官)は仁和寺宮嘉彰親王であり、名目上だけの存在であった。大村は事実上、日本陸軍の建設を指導することになる。
大村は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、大村の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら八人の刺客に襲われる。
10月27日手術を受けるも翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し、5日の夜死去した。
大村死去の報を受けた木戸は「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」(11月12日の日記)「実に実に痛嘆すべきは大村翁の不幸、兵部省もこの先いかんと煩念いたし候」(槙村正直宛の12月3日付の書)とその無念さを述べている。
花神 (NHK大河ドラマ)】
花神』(かしん)は、NHKで1977年1月2日から12月25日に放送された15作目の大河ドラマ。周防の村医者から倒幕司令官に、明治新政府では兵部大輔にまで登りつめた日本近代軍制の創始者大村益次郎を中心に、松下村塾の吉田松蔭や奇兵隊高杉晋作といった、維新回天の原動力となった若者たちを豪快に描いた青春群像劇。
小説『花神』は司馬遼太郎の作品。

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文藝春秋 10月号 (2009年)
司馬遼太郎が愛した日本人 大座談会
【対談者】昭和史家・作家 半藤一利茨城大学准教授 磯田道史東京大学教授 山内昌之、作家 水木楊
知謀のひと (一部抜粋しています)
半藤 では、いよいよ『坂の上の雲』に入りましょうか。司馬作品で、もっとも参謀が活躍する作品が『坂の上の雲』ですね。海軍では秋山真之、島村速雄、加藤雄一郎、陸軍では児玉源太郎といった綺羅星のごときスターたちがそろい踏みします。
磯田 その前に、明治の軍隊をほとんど1人で近代化させたといっていい大村益次郎について少しだけ。ときどき歴史には、「この人がいなければ」という取替えのきかない人物があらわれます。司馬さんはそういう人物をピックアップするのに長けている。なかでも大村益次郎は、軍事といえば侍の専売特許だった時代にいきなり現れ、数学的な正確さで軍事作戦を立て、長州四境戦争、戊辰戦争を勝利に導いた。こういう人材は生まれるものであって育てることができません。見出すことしかできない。
山内 たしかに大村益次郎の生涯をみると、全く思いがけないタイミングであらわれていますね。一介の村医者として生涯を終えるはずだった村田蔵六蘭学を学び、いつのまにか西洋軍学にも精通してしまうわけですから。それが大村益次郎と名もかわり長州軍の実践指揮官となって兵部大輔(軍事大臣)として近代軍隊としての兵制を整える。こんなことは平時では起こり得ません。取替えのきかない才能として、もう1人、有坂成章も加えましょう。有坂砲と三十年式歩兵銃を開発し、横須賀に据えられていた十八インチ榴弾砲を旅順の陸戦に投入するよう進言した有坂がいなかったら、はたしてあの戦勝を得ることができたかどうか。

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どうでもいい、じじぃの日記。
11/12、NHK 「シリーズ 未来をつくる君たちへ 〜磯田道史が語る大村益次郎〜」を観た。
こんなことを話していた。(前半のみ)
今日、登場するのは司馬遼太郎の小説『花神』の主人公、大村益次郎
幕末動乱の日本に彗星のごとく現れた明治維新のヒーローの一人です。別名、村田蔵六。武士ではなく、農民と同じ身分の医者の出身でした。
西洋の合理的な考えで長州藩を率い、幕府軍を打ち破って武士の時代に終止符を打ちました。
 要するに蔵六は、どこにでもころがっている平凡な人物であった。
 ただほんのわずか普通人、とくに他の日本人とちがっているところは、合理主義の信徒だったということである。
                        司馬遼太郎花神』より
大村の生涯を貫いた合理主義。それはどんなものだったのでしょう。
磯田さん、「合理主義は道具なんだ、だから良くも使えるし、悪くも使える。これが・・・」
歴史学者磯田道史さんが大村益次郎の故郷、山口県の中学生とともにその生涯をたどり、合理主義とは何かを考えます。
司馬遼太郎の作品でも『花神』が一番好きだという磯田さん。日本がさまざまな困難に直面している今こそ、大村益次郎の合理主義に学ぶべきだといいます。
磯田さん、「変革期には変わり者の合理主義者が現れ、この国を引っ張っていくという歴史がある。その有りようのチャンピオンといっていい人物が大村益次郎であった。その大村益次郎という人物について、ぜひ若い方々に知ってもらいたいと思う」
山口県の地方都市で、手入れのいき届いたお墓の映像が出てきた。
山口市の南東郡、ここは昔鋳銭司(すぜんじ)と呼ばれていました。およそ190年前、大村益次郎はこの地に生まれました。
地元の山口市立潟上中学校。ここが対話の舞台です。
磯田さん、「おはようございます」
教室では14名の3年生が待っていました。
        ・
磯田さん、「大村益次郎についてどういう人だったと思いますか?」
男子生徒、「頭はとても賢いけど、性格はあまり人付き合いがよくなくて、少しまわりが見えていないところもあった人だと思う」
磯田さん、「なるほど。今日エアコンが無くて、扇風機が回っているだけで暑いですね。こういう暑い日に『暑いですね』と言ったら、大村益次郎はどう答えたか、覚えていますか?」
女子生徒、「夏はこういうものです」
        ・
 体をその野良百姓のほうにむけ、「夏は暑いのがあたりまえです」と、こわい顔で言った。
 百姓はあきれたが、蔵六にすれば百姓の言いぐさこそおかしい。
 人間、発するときは意味のあることを言うべきで、すでに暑いとわかっているのになお言葉で説明して暑いというには無用のことではないか、と蔵六は思っている。
                        司馬遼太郎花神』より
無駄なこと、道理に合わないことを嫌った大村。そんな大村が必要とされる時がきます。大村29歳のとき、ペリー率いるアメリカの黒船が浦賀に来航。徳川幕府に開国を迫ります。
海岸に幕府軍が陣取り、沖合に3隻の船が浮かんでいる映像が出てきた。
欧米列強にどう対応するのか、幕府や諸藩はこぞって海外の事情に通じた人材を求めました。大村も蘭学の実力を買われ、学者として幕府に招かれます。特に求められたのはオランダの兵学書の翻訳でした。翻訳を通して西洋の進んだ軍事知識を身につけた大村。36歳の時、ついに郷里の長州藩から取りだてられます。当時の長州藩は外国を打ち払うべしという攘夷論を掲げていました。
海岸から大砲が船に向けて砲撃している映像が出てきた。
無謀にも関門海峡を通るアメリカ、フランスなどの船を砲撃(下関事件)。しかし4ヵ国の艦隊から圧倒的な力を持つ近代兵器で報復され、敗北を喫しました。過激な攘夷に走る長州藩は国内でも孤立を深めていました。窮地に立たされた藩は軍の立て直しをはかります。長州藩はその任務を大村に託します。軍の指導者として歴史の表舞台に出た大村は持ちまえの合理主義で長州藩を変えていくのです。
磯田さんは大村益次郎の合理主義を説明するために、大村が訳したオランダの兵学書を持ってきました。
磯田さん、「これが大村益次郎が翻訳して、教科書として使っていたものの現物です。合理的なものの考え方とは何か、ということがわかります」
①イスキコンデ 数学のこと
②弾がどう落ちるか計算しないといけない
③エレメンタイレ 要素
磯田さん、「大村益次郎が合理主義として掲げていたのは、数学、火薬を撃ったときの計算、それで目的を達成するために必要な要素。特に大村が一番科学的な言葉として言いたいことは、エレメンタイレという考え方を身につけるということだったんです。結果に影響を与えない要素だったら、徹底的に排除していく。これが大村益次郎の合理主義の恐るべきところなんです」
        ・
じじぃの感想
「結果に影響を与えない要素だったら、徹底的に排除していく」
確かに結果が良ければ、すべて良しだ。
しかし、弱い者を徹底的に排除していくというのなら、それはどっか違うだろう。
どこか、矛盾する? (^^;;