古市公威の像
古市公威(東京大学) relax@live
http://blog.livedoor.jp/relax_live/archives/1472226.html
古市公威 ウィキペディア(Wikipedia) より
古市 公威(ふるいち こうい、嘉永7年(1854年) - 昭和9年(1934年)1月28日)は、日本の学者。工学博士。帝国大学工科大学初代学長。東京仏学校(後の法政大学の前身の一つ)初代校長。土木学会初代会長。日本工学会理事長(会長)。東京帝国大学名誉教授。男爵。
帝国大学工科大学長・土木学会長・工学会(日本工学会)理事長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を創った。
【幼少期からパリ留学まで】
古市公威は、姫路藩士古市孝の長男として1854年(嘉永7年)に江戸の藩屋敷で生まれた。
1873年(明治6年)には開成学校に設置された諸芸学科へ進学、1875年(明治8年)諸芸学修行のため文部省最初の留学生として欧米諸国へ派遣されることとなった。1879年(明治12年)8月、フランスの中央工業大学(エコール・サントラル)を卒業して工学士の学位を受領、同年にはパリ大学理学部に入学、翌年には同校を卒業して理学士の学位を受領している。
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NHKスペシャル 司馬遼太郎思索紀行 「第1集 辺境の島国」 2016年2月13日
【ナビゲーター】香川照之 【朗読】小林薫
2016年2月、没後20年を迎える作家・司馬遼太郎。
作品『この国のかたち』を読み解きながら、“日本人とは何か”に迫る。
第1集は“辺境の島国”がどのように日本人を形づくったのかに焦点を当てる。
異国の文明に憧れ、貪欲に取り入れてきた日本人。そのメンタリティーの根源に何があるのか?司馬が日本の風土や人物に見いだした「かたち」を旅しながら島国の叡智を掘り起こす。
http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2016-02-16&ch=21&eid=01976
2月13日 NHKスペシャル 司馬遼太郎思索紀行 「第1集 辺境の島国」 より
戦後焼け野原から驚異的な復興を果たした日本。そして今大きな岐路に立つ私たち日本人。
この日本という国の成り立ちを生涯考え続けた作家がいました。国民作家と呼ばれた司馬太郎です。
晩年、日本論の集大成として書き続けた作品「この国のかたち」。
日本という国をつくり上げてきたさまざまな文化や慣習をこの国の「かたち」と呼びその意味を解き明かそうとした作品です。
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東京大学の正門をくぐり左に曲がってすぐの所。
ほとんどの学生が素通りし、名前さえあまり知られていない人物の銅像があります。
司馬さんが明治の近代化の秘密を解く鍵と見なした人物です。日本の土木工学のパイオニア古市公威です。
司馬さんに古市について教えたのは土木工学の世界的権威、東京大学名誉教授高橋裕さんです。
高橋裕さん、「明治の巨大な大人物といえば、やはり古市だろう。明治の日本の近代化というのは世界史の中でも特筆すべき。一挙に成し遂げられた。その先頭に立っていた一人が古市でしょうね」
司馬さんは古市のどこに引かれたのか。
東大工学部の図書館に古市の際立つ個性を伝える資料が残されています。
図書館員、「こちらが古市公威先生が留学時代に受けられた授業の講義のノートです」
21歳でパリに留学した古市の手書きのノート。数学、物理、建築など新たな知識をあふれる好奇心で学びます。
古市は自主的にヨーロッパ調査旅行にも出かけます。
1つの国にとらわれることなく、さまざまな国の技術を柔軟に吸収していきました。
古市のノートから、
「鉄道と海運においてはイギリスの技術はフランスに勝っている。アムステルダム(オランダ)の運河は他に類を見ない最も美しい工事である」
その勉強ぶりに下宿の女主人が呆れて、
「古市、体をこわしますよ」と忠告する。
それに対して、「私が1日休めば、日本は1日遅れるのです」
いかにも明治初期の留学生らしい。
フランスから帰国した古市は国づくりの一翼を担っていきます。
力を注いだのは西洋の技術に独自の工夫を加えることでした。
当時、インフラが未整備で台風や大雨の度に氾濫を繰り返した日本の河川。
狭くて急流の多い河川の特質に合わせ、堤防の基礎部分に改良を加えはるかに強固なものへと造り替えました。
古市のような人たちが多くの日本人を感化し西洋の文明を広めていった明治の近代化。
司馬さんはそのことを電気を分配する装置に例えてこう表現しています。「文明の配電盤」。
古市が配った電流は、西洋の文明に強い憧れを持つ日本人に急速に広まっていきます。
こうして、明治の日本はアジアに先駆けて産業革命を成し遂げ奇跡と呼ばれる近代化を実現したのです。
司馬太郎さんの思索と共にたどってきた私たち日本人の成り立ち。
振り返ってみると私たちは実にドラマチックな歴史を歩んできた。そんな思いを新たにしました。
この小さな島国で幾多の困難にぶつかりながら、時に驚くほど柔軟にそしてあふれんばかりの好奇心を持って私たちの祖先は時代を切り開いてきました。
司馬さんはこうした島国に育まれ、たくましく生き抜いてきた日本人の姿を死の直前まで見つめ続けていました。
ただ今回の取材の中で、私たちは晩年の司馬さんが編集者に送った手紙の中に気になる言葉を見つけました。
「国民精神が無感動体質になることが怖い」。
もう20年以上前の言葉ですが、今の私たちに大事なメッセージを語りかけてるような気がします。