じじぃの「近代化・なぜイギリスは日本を支援したのか!150年前の科学誌『NATURE』には何が」

My Historyを愛そう!vol.3☆「明治お雇い外国人とその弟子たち」フリージャーナリスト片野勧さんの作品

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0_v8i06hRSU


ヘンリー・ダイアー物語

株式会社大学教育出版
ロビン・ハンター 著、加藤詔士、宮田学 訳
明治のはじめ、スコットランドから招かれたH. ダイアーは工学教育を推進し、日本の工業化に貢献した。
帰国後は、日本での教育実践を郷里グラスゴーに移植したり、日本人留学生の支援等で日本とスコットランドの懸け橋となった様子を紹介。
https://www.kyoiku.co.jp/00search/book-item.html?pk=1117

150年前の科学誌『NATURE』には何が書かれていたのか 紀伊國屋書店

瀧澤 美奈子【著】
【目次】
序 なぜ今、150年前の科学雑誌を読むのか(本書の目的)
第1章 Nature創刊に託された思い
    ・
第7章 モースの大森貝塚
第8章 Nature誌上に見る150年前の日本
付録 初期のNatureに何度も載った日本人
【感想・レビュー】
●本書は、「Nature」がどのような理念が掲げられて出発し、どのような道のりを歩んできたのか、雑誌制作に関わった科学者らの具体的な活動を通して明らかにしていきます。物事の普及に努めようと専心する人々の高邁な精神は、動き始めた当初においてこそ多くを感じることができるのかもしれません。一般大衆を第一読者と想定していたのは興味深いですね。本書を読み進めるには科学的な知識は不要です。著者は、「Nature」にならって対象となる読者を一般人としているのでしょう。科学に対する情熱が余すところなく伝わる労作です。

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『150年前の科学誌『NATURE』には何が書かれていたのか』

瀧澤美奈子/著 ベレ出版 2019年発行

第8章 nature誌上に見る150年前の日本 より

Ⅱ 近代化を始めた日本

「東洋のイギリス」で世界最先端の工学教育を

natureはさらに、日本の科学教育に注目します。
当時のイギリスが日本の科学技術教育に注目していたのには、特別な理由があります。現在あまり意識されていませんが、イギリスの、とくに産業革命の中心地であるスコットランドグラスゴーを中心とする学術界が、日本の国立大学設立に大きな役割を果たしたのです。
その証拠ともいえるのが、翌1873年4月3日号の「ENGINEERING COLLRGE IN JAPAN」と題する半ページほどの記事ですImperial college of engineering,Tkei、つまり工学寮(のちの工部大学校で東京大学工学部の全身)を設立するまでの検討経緯が紹介されています。

  日本政府は西洋文明を例にとって、日本の若者に御ボク工学の指導をするために、江戸に大学を設立することを決意した。日本に眠る巨大な天然資源を開発しようという強い願望がこの国に生じているからだ。
  大学の設立についてのアドバイスと実践的援助がわれわれに依頼された。われわれのもとを大使が訪れ、わが国(英国)の優秀な産業が、鉱業、冶金、工学、そして多くの製造業に関する科学の新興とどれほど緊密に関係しているか、そしていかに人間の影響下にある自然の力を引き出すのに役立つのかを視察した。

「わが国(英国)の優秀な産業が……」のくだりは、産業革命を牽引し「世界の工場」といわれるほどの成功をおさめていた大英帝国の自信がみなぎっています。そしてまた、日本政府が天然資源の開発を重視し、その人材を育成するうえで「早急な工業技術教育が国の未来を左右する」と認識していたことがわかります。

なぜイギリスは日本を支援したのか

イギリスはそのころアヘン戦争で中国を征服し、インドを植民地化していました。この記事からわかるように、その大英帝国に対して、近代化以前の丸腰の日本が直接に助力を申し込んだわけです。なんと大胆不敵ではないでしょうか。なぜ日本は、中国やインドのように征服されなかったのでしょうか?
このあたり、詳しくは他書に譲りますが、当時のイギリスの事情からも、二本に学問や技術援助をすることがイギリスの国益にかなっていたと考えられています。
イギリス側の事情はふたつあって、ひとつはイギリスが中国や南アフリカとの戦争で、莫大な出費を強いられていたということです。そこで植民地支配ではなく自由貿易によってイギリス本国の負担をできるだけ少なくしようとする、「小英国主義」への政策転換が図られていました。もうひとつは、フランスやロシアなどの列強が、日本に接近していたことです。
これらのことから、イギリスは学術や技術支援をとおして、平和的に日本の市場を獲得したい思惑があったとされます。イギリス人たちは、小さな島嶼国(とうしょこく)であり国家元首がいる日本を「東洋のイギリス」と呼んで、その発展に協力しました。
とくに科学技術の教育の分野では、この記事にあるように「われわれのもとを大使が訪れて視察した」ことで、イギリスが日本を支援する計画が始動しました。

岩倉使節団が教師の人選を依頼

その視察とは、総勢50名で世界を視察してまわった岩倉使節団です。岩倉使節団アメリカを視察したあと、1872年7月からロンドンを起点として約4ヵ月間イギリスに滞在し、イギリスに帰国中の駐日公使パークスの案内により、リバプールマンチェスターグラスゴーエディンバラニューカッスル、ブラッドフォード、シェフィールド、バーミンガムなどを見てまわりました。
この岩倉使節団と工学寮設立が、密接に関わっています。
視察団がロンドンを訪問した際に、副使である伊藤博文がマセソン商会ロンドン社長のヒュー・マセソンに、正式に工学寮の教師の人選を依頼し、その伝手(つて)でグラスゴー大学のランキン教授やケルヴィン卿の人選による「お雇い教師団」が編成されることが決まりました。
ちなみにランキンもケルヴィンも、熱力学理論で大きな成果をあげた物理学者です。とくにケルヴィンは22歳の若さでグラスゴー大学教授に就任し、電磁気学や流動力学などの研究を進め、当時の物理学における「知の巨匠」として影響力があり、お雇い教師団の人選に大きく関与したといわれます。

社会発展の原動力は困難に立ち向かうエンジニアである

そしてその工学寮の都検に選ばれたのが、グラスゴー大学出身でランキン教授の弟子である当時24歳のヘンリー・ダイアー(Henry Dyer、1848-1918)でした(都検とは教頭の意味ですが英国側としてはprincipal<校長>と理解していました)。
このような展開で英国学術界の協力を得られたことは、日本にとってじつに幸運なことでした。ダイアーをはじめとする協力者たちは、スコットランド伝統の実学思想のもと、身分を超えた「個人の能力」と「共同体繁栄への貢献」を重視していました。
「社会発展の原動力となるのは、成功に向けて困難に立ち向かうエンジニアである」、という思想をもっており、彼らのエンジニア教育とは、学歴的な職業訓練ではなく、社会発展の担い手となる全人的な教育を目的としていたのです。
現在の東京都の虎ノ門駅近くに文部科学省がありますが、そこに工学寮が建てられていました。その建物の配置にもダイアーの思想が表れていたといいます。学生は学寮生活を送りますが、教師館と生徒館は近接していて、昼夜を問わず勉強や私生活の相談をすることができました。
人間関係も権威主義的ではありませんでした。ダイアーは学生を「ミスター」の敬称をつけて呼び、教師と学生が相互に尊敬・信頼・啓発される関係にありました。