じじぃの「近代化を始めた日本・初めて記載された日本人!150年前の科学誌『NATURE』には何が」

佐藤進:ベルリン大学でアジア人として初めて登場


150年前の科学誌『NATURE』には何が書かれていたのか 紀伊國屋書店

瀧澤 美奈子【著】
【目次】
序 なぜ今、150年前の科学雑誌を読むのか(本書の目的)
第1章 Nature創刊に託された思い
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第7章 モースの大森貝塚
第8章 Nature誌上に見る150年前の日本
付録 初期のNatureに何度も載った日本人
【感想・レビュー】
●本書は、「Nature」がどのような理念が掲げられて出発し、どのような道のりを歩んできたのか、雑誌制作に関わった科学者らの具体的な活動を通して明らかにしていきます。物事の普及に努めようと専心する人々の高邁な精神は、動き始めた当初においてこそ多くを感じることができるのかもしれません。一般大衆を第一読者と想定していたのは興味深いですね。本書を読み進めるには科学的な知識は不要です。著者は、「Nature」にならって対象となる読者を一般人としているのでしょう。科学に対する情熱が余すところなく伝わる労作です。

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(軍医) 佐藤 進

ウィキペディアWikipedia
佐藤 進(さとう すすむ、1845年12月23日〈弘化2年11月25日〉 - 1921年〈大正10年〉7月25日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、順天堂医院院長。最終階級は陸軍軍医総監(中将相当官)。男爵。医学博士。
【経歴】
常陸国太田内堀で醸造業高和清兵衛の長男として生まれる。佐倉順天堂に入り佐藤尚中の養嗣子となる。戊辰戦争では奥州に出張し、白河、三春で新政府軍の病院頭取を務めた。明治2年(1869年)、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイツに留学。ベルリン大学医学部で学び、1874年(明治7年)にアジア人として初の医学士の学位を取得し帰国。順天堂医院で医療と医学教育に従事した。
1877年(明治10年)、西南戦争が勃発すると陸軍軍医監に任じられ、陸軍臨時病院長として大阪に出張した。1879年(明治12年)10月、陸軍本病院長に就任。1880年明治13年)に陸軍を辞め、順天堂の経営に専念した。

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『150年前の科学誌『NATURE』には何が書かれていたのか』

瀧澤美奈子/著 ベレ出版 2019年発行

第8章 nature誌上に見る150年前の日本 より

Ⅱ 近代化を始めた日本

不思議の国から熱心に技術を習得する国へ

チェッサー(「The Japanese」の記事を書いたイギリス人女性)の記事が掲載されたあとしばらくは、natureの日本についての話題は、彼らにとって珍しい日本の動植物についての博物学的な関心です。たとえば、日本近海で見つかった新種の貝や日本産の蚕、冬に咲く花、茶の木の栽培などといったことが、ぽつりぽつりと登場する程度です。
ですがその後、数年の間に日本の科学や技術、そして医学教育や技術教育に関した記述が何度か現れ、そのあいだに彼らの認識がどんどん変わっていくのがわかります。
まず1872年7月25日号のNOTESの欄には、日本で開催された博覧会の記述があります。チェッサーの記事と本記事を比べると、nature読者が、日本の学問の進展状況の把握へと収斂しているのがわかります。

  イエール大学の情報筋によると、江戸で4月初めに始まった自然と芸術の好奇心を集めた展覧会により、日本の教育がついに新時代を迎えたらしい。
  この種の催しは、通常、高度な文化を示すものである。欧米の例を真似することにおいて、日本人は中国や他の東洋諸国に比べ、大きな優位を示している。この展覧会は孔子の精神にゆかりの神聖な寺院で開かれた。

1872年3月10日から、湯島聖堂の大成殿で開かれた日本政府主催の初の展覧会である「湯島聖堂博覧会」を伝えた記事です。
この博覧会では、日本の植物、爬虫類、魚類、昆虫、鳥類といった動植物の標本が上手に作られ、展示されました。名古屋城金鯱(きんのしゃちほこ)まで陳列されて、大変な人気を博したそうです。
20日間の予定だった会期を1ヵ月以上も延長し、4月末までの入場者数は15万人でした。1日平均約3000人の計算です。この博覧会が”日本の博物館の誕生”とされ、東京国立博物館はこの博覧会を創立・開館の時としています。
記事は日本で開催された博覧会について、会期からわずか半年足らずでnatureに登場しています。彼らの日本への興味に加え、情報網の確かさを示しています。

nature誌上に初めて登場した日本人はひとりの留学生

同じ年(1872年)の12月5月号のNOTES欄には、医学雑誌British Medical Journalからの転載で、日本人留学生の優秀さが紹介されています。ここに登場するのが、nature誌上初めての、個人の実名で記載された日本人です。

  British Medical Journalによると、ベルリン大学で行なわれた解剖学の試験で、13人のうち「良い」の判定になった者はたった2名だった。そのうちひとりはSasumi Satooという日本人の留学生だった。

記事によれば、「Sasumiはドイツ語も知らない状態で日本から父によってドイツに送り込まれ、最初の5ヵ月でドイツ語を習得し、残り6ヵ月でラテン語を含むすべての科目の知識を習得した」、ということです。
同じ試験を受けた同優生はドイツ人が中心だったでしょうから、Sasumi Satooなる人物の、ずば抜けた優秀ぶりが記事から伝わってきます。彼らにとっても驚きだったため、他の雑誌からわざわざ転載して伝えているのです。
このSasumi Satooとはいったい誰なのでしょうか?
読み進めると「Sasumiの父は天皇家の侍医」、とあります。このことからSasumiは蘭方医明治天皇侍医長を務めた佐藤尚中(しょうちゅう)の跡継ぎとして、親戚から養子に迎えられた佐藤進(1845-1921)で間違いありません。susumuがSasumiと誤って表記されたのです。

佐藤進は1869年にドイツに渡ってベルリン大学医学部で学び、1874年にアジア人初の医学士の学位を取得して翌年帰国しています。

19世紀後半、日本からおびただしい数(千人きぼ)の若者が留学のために欧米諸国に渡っていましたから、迎える側の各国は、将来の日本を担う彼らが、どれほどの可能性を持っているのかということを興味津々で観察していたのです。