じじぃの「破傷風菌の純粋培養・ノーベル賞を逃がした日本の細菌学者!池上彰のニュース検定」

北里柴三郎偉人伝】幻のノーベル賞?新紙幣の偉人を東大生が徹底解説!福沢諭吉との関係とは?(後編)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=qd9KNg7L3Nk

Kitasato Shibasaburo

池上彰のニュース検定

2020年5月12日 テレビ朝日 【グッド!モーニング】
きょうのキーワード 「近代医学の父」。

問題 「北里柴三郎が治療法を見つけた感染症は?」

狂犬病
破傷風
・風疹
正解 破傷風
池上彰さん解説】
 「北里柴三郎博士は破傷風菌の純粋培養(破傷風菌だけを取り出し培養する)や血清療法の確立、ジフテリア破傷風の抗血清開発など、細菌学の分野で多大な功績を挙げ、国内外での伝染病予防と治療に貢献したことで知られています。さらに長年人々の命を奪ってきたペスト菌の正体を暴いたのも北里です。世界で活躍する弟子も育てました。例えば野口英世です。今の千円札には野口の肖像が印刷されています。次の千円札には北里の肖像画が使われます。弟子の野口英世から野口を教えた北里柴三郎に変わるのです」

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『明治二十一年六月三日─鴎外「ベルリン写真」の謎を解く』

山崎光夫/著 講談社 2012年発行

憚ることなき人 北里柴三郎 より

北里は明治8年(1875)の11月に東京医学校に無事入学を果し、下谷和泉橋の寄宿舎に入った。そして、明治16年(1883)7月に東大医学部を卒業する。成績は26人中、8番だった。首席は、”ベルリン留学生写真”にある河本重次郎で、隅川宗雄も同級生だった。
北里は内務省衛生局に奉職する。ここでの細菌学の論文翻訳や衛生局東京試験場の活躍が認められ、ドイツ留学が実現する。この東京試験場は医学部講師を務める緒方正規が兼務して、細菌学の研究を始めた日本初の細菌学研究所だった。緒方とは同郷で、熊本の医学校でも同輩だった。一足早く上京し、東大医学部を卒業し、ドイツ留学を果たしていた。北里はその緒方の指導を仰ぐ形で細菌学を修めた。北里はこの緒方と後年、「脚気菌」をめぐり論争を巻き起こす。
さて、北里のドイツ留学であるが、留学生としてすでに中浜東一郎(中浜万次郎の長男、鴎外と同期で医学部14年卒)が内定していた。もう一人を派遣する財政的ゆとりはなかった。だが、衛生局長・長興専斎や陸軍省軍医監兼内務省衛生局員の石黒忠悳の斡旋、そして、内務卿・山縣有朋の鶴の一声があり北里のドイツ留学が決まった。それほど北里の細菌学研究は実をあげていたのである。
この間、明治16年4月、男爵・松尾臣善の次女、乕と結婚した。
かくして北里は明治18年(1885)12月5日、横浜から仏客船「メンザレエ号」に乗船した。同じ船に中浜東一郎、大竹多気(のちに工学博士、製絨研究)、石川千代松(のちに東京大学農科大学教授)が乗っていた。スエズ運河を経由してフランスの港町、マルセイユに上陸、列車でベルリン入りをした。
北里はベルリン大学のローベルト・コッホ教授のもとで、細菌学の研究を始めた。
北里はコッホの信条でもある「しばしも怠るな」の教えを忠実に守って、師から与えられた課題を順調にこなしつつ、実験に明け暮れる研究生活を続けた。
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北里は破傷風菌を純粋培養する過程で、これまでの細菌学では説明できない不思議な現象に出会っている。破傷風菌の毒素に慣れた動物では、致死量を投与しても無毒化してしまい、破傷風には罹らなかった。そして、破傷風免疫動物の血清のなかには、破傷風菌の毒素に対抗してこれを無毒化する物質があることを確認した。北里はこの物質を「抗毒素」と名付けた。今日でいう、抗原抗体反応の「抗体」にあたる。これは免疫血清療法の夜明けを告げる研究だった。
さらに、北里はコッホの指示にもとづき、コッホの門人でジフテリアを研究していたベーリングとともに共同で実験を続け、明治23年(1890)12月、「動物に於けるジフテリア免疫と破傷風免疫の発生について」と題する共著論文を発表した。ここに免疫血清療法が明らかにされたのである。
この論文の核心データは、北里の破傷風の実験成績しか掲載されていない。いわば北里の破傷風免疫の研究に終始していたのである。後年、ベーリングジフテリアの研究が評価され、明治34年(1901)にノーベル医学・生理学賞の第1回受賞者となった。しかし、ノーベル賞候補にあがったものの、北里は受賞できなかった。ノーベル賞が人類に貢献した原理発見者に与えられる賞なら、破傷風免疫体(抗毒素)を発見した北里に与えられてしかるべきだった。一歩譲っても、同時受賞が妥当である。北里が受賞しなかったのは、有色人種への偏見と極東の小国への軽視が働いたためだったと考えられる。現在なら文句なしに受賞したであろう。
その後、北里はコッホが開発した結核に対するツベルクリン療法の研究に関与した。
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北里はペスト菌発見者として、研究実績を残して帰国したが、青山胤通(鴎外の1年後輩ながら生涯の親友)は憔悴しきった無残な帰国だった。北里と”東大派”は歴然とした違いをみせた。
明治39年(1906)11月、国立伝染病研究所は白金台町(現・港区白金台4丁目)の1万8千坪の広大な土地に移転した。ここに日本の伝染病研究所は、ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所に匹敵する世界有数の研究所となった。
明治41年(1908)6月、北里の招待でコッホ夫妻が来日した。15年ぶりの再会だった。北里は夫妻を伝染病研究所や美術館、相撲などの見物をはじめ、鎌倉、伊勢、奈良、京都、宮島などを巡る旅行に案内した。
鴎外も陸軍軍医総監・陸軍医務局長の立場で会い、留学時の礼を言った。