じじぃの「歴史・思想_192_世界史の新常識・釈迦の教え・無常思想」

The Buddha (Full Documentary)

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大河の一滴五木寛之 感想・レビュー・試し読み

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この世に生まれてきて、人々の為に努力し、立派なことを成し遂げる人がいる。それに対し、頑張れない自分、ほとんどなんの貢献もしていない自分に、がっかりする事がある。
素晴らしい成果があろうが、失敗だらけだろうが、まず存在していることに大きな価値がある、という言葉に、ハッとさせられた。
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『世界史の新常識』

文藝春秋/編 文春新書 2019年発行

古代

どうして釈迦は仏教を開いたか 【執筆者】呉智英 より

今から2500年ほど前、世界中の別個の文明圏でほぼ同時に、思想史上原形となる思想家が登場した。孔子(BC552~479)、釈迦(BC463~383)、ソクラテス(BC469~399)である。いずれも生没年について研究者間に少しずつ異説があるが、そうであればむしろ大雑把に2500年前と解しておいた方がよいだろう。
孔子の思想、儒教は、以後東アジア諸国の社会倫理・政治思想の経糸(たていと)となった。釈迦は仏教の開祖であり、アジア諸国の文化に大きな足跡を残すとともに、その中核思想は19世紀以後欧米の哲学者に衝撃を与えた。ソクラテスの思想は、その弟子プラトンによって継承され、後にヨーロッパに入って来たキリスト教を理論家・体系化するうえで重要な役割を果たした。
この3人が人類史上ほぼ同時に現れたことは、奇蹟と言えば奇蹟だが、敢えて神秘的に考える必要はないだろう。

無常と恒常

釈迦はインド北部(現在のネパール)の小国の王族、釈迦族の王子として生まれた。生母は釈迦を産んですぐに死去したが、この悲しみが釈迦を内省的な人格にしたようだ。やがて青年となった釈迦は何人もの師に就いた。インド文明は後の「0の発見」に象徴される抽象思考が特長だが、こうした思考の精髄を身につけ、釈迦は独自の宗教を開いた。
その仏教では何を説いているのか。釈迦の「覚った」という思想は何なのか。
それは、この世のすべては「無常」だということである。無常とは、恒常、永遠を否定した言葉である。恒常、永遠のものはない、そのことが分からず、これに執着するから迷いとなる。
恒常、永遠は、無限、絶対、完全と言い換えていい。無常は、これに対し、有限、相対、不完全ということになる。これらを分かりやすくまとめてみよう。

a 「無常」系グループ  有限、相対、不完全、現象など

b 「恒常」系グループ  無限、絶対、完全、実体など

bグループに、神(一神教の)、イデァが入るだろうことも予想つくはずだ。そして、aグループには、この神およびイデア2語の適切な対義語が見つけにくいことも予測できるだろう。
    ・
aグループの思想とbグループの思想と、どちらが良いかは悪いかは、簡単に決しえない。だからこそ、それぞれが軸となって世界史を発展させてきた。つまり、それぞれ思想の原形なのである。
この2つの思想の原形は、いわば対極であるから、相手の存在が理解できない。もっとも、相手が貧弱で粗末であれば無視・冷笑していればすむ。ところが、相手が壮大な思想体系や文明圏を築いていると知ると、衝撃を受ける。キリスト教を軸とする西洋文明が仏教思想を知った時の衝撃がそれである。先述のように、それは19世紀に顕著なのだが、実は先駆形がBC2世紀後半に一度起きている。『ミリンダ王の問い』(平凡社東洋文庫)である。

カントと仏教

カントは、理性は世界の究極(物自体、イデア、要するにbグループ)に至りえないと考えたが、そうなると、我々人間の行動は何によって根拠づけられるのか、という大問題が浮び上ってくる。それがカントにとっては「実践理性」であり、ハイデッガーにとっては「決断」であり、サルトルにとっては「投企」である。bグループがどうであろうと、人間は現実に行動せざるをえない。
この問題を釈迦は「箭喩経(せんゆきょう)」で説く。「箭」は「矢」、「喩」は「たとえ」、通称「毒矢の喩え」ともされる。
釈迦の弟子の摩羅迦子(まらかし、マールンクヤブッタ)は、師が次のような疑問について講義してくれないことに不満があった。
それは、世界は永久に続くのか、世界に涯(はて)はあるのか、人は死後なお存在するのか、魂と身体は同じであるのか、という疑問である。それぞれ、永遠、無限、恒常、完全ということであり、bグループに属する。
釈迦はこの問いに答えない。これを「無記」という。述べない、論じない、ということである。それぞれの問いへの答えは、そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。つまり正答に至りえない。それなのにこれにこだわり徒(いたず)らな議論にふけることは「戯論(けろん)」にしかならない。
釈迦は説く。毒矢を射られて苦しんでいる者がいるとしよう。その時、その苦しむ者の出身が何であるか、弓の種類が何であるか、矢の種類が何であるか、これを議論し、結論が出るまで何もしないとするのが正しいであろうか。まず毒矢を抜かなければならないだろう、と。
この話もまた仏教が思想の軸たることを証明しているのだろう。2500年前にカントの言う実践理性が要請される原形は出ている。
ところで、私は釈迦の教えに素直には従えない業深き種族、知識人の一人である。毒矢を抜かなければならないのは、釈尊のおっしゃる通りだが、戯論と承知しつつも戯論にふける誘惑に抗し切れない。「知りたい」のである。だって、ハイデッガーの「決断」はナチスを増長させただけだし、サルトルの「投企」は共産主義に利用されただけではないか。後世そんな風になろうとは、お釈迦様でも気がつかなかった。
aグループもbグループも、人間の思考の原形として、これから2千年も3千年もあざなえる縄の如く文明の軸となってゆくはずだ。これだけは確実だろう。