じじぃの「歴史・思想_191_世界史の新常識・古代ギリシアにペルシア帝国の影」

Ancient History Persian Empire Documentary

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FKFMo3eB82o

ペルシャ硬貨 紀元前5世紀

Persian Empire - Age of Empires

The Persians were unlikely empire builders but in a relatively short span of years they conquered most of the Near East. They benefited from the leadership of a series of strong kings and from a lack of competent leaders among their neighbors. They expanded very quickly, stood on shaky ground for a few hundred years under internal and external pressures, and then collapsed suddenly and utterly. Despite their accomplishments and the breadth of their influence, our knowledge of the Persians is surprisingly limited.
https://www.ageofempires.com/history/persian-culture/

『世界史の新常識』

文藝春秋/編 文春新書 2019年発行

古代

古代ギリシアはペルシア帝国に操られていた 【執筆者】森谷公俊 より

紀元前5世紀の古代ギリシア、繁栄の絶頂にあったアテネでは、風変わりなものが流行していた。ギリシャ人の衣服は1枚の布を巻いただけで袖がないのに、長袖のついた丈の長い上衣を着る人々がいた。奴隷に日傘を持たせ、頭上にかざして外出したり、室内では扇で自分をあおがせる女性たちもいた。こうした様子は現存する壺絵に見ることができる。長袖の上衣、日傘に扇、どれもペルシア風を真似たもので、上流の人びとによって使われた。
ペルシア風は個人の趣味に留まらない。民主政を動かす役人団の1つである評議員の詰所は円形で、上部は傘を開いたような円錐形をなしていた。アクロポリスの麓(ふもと)に建てられたオディオンと呼ばれる建物は、正方形の敷地に9列x9列の柱が並んで四角錘の屋根を支えるという、当時のギリシャでは考えられない建築様式だった。これはペルシャ王の天幕を摸倣したと考えられている。このように公共建築にさえペルシャの様式が採用されたのだ。これは一体何を意味するのか。
ペルシャ軍の侵攻をギリシャ人が撃退したペルシャ戦争(前490~479年)からすでに数十年、ギリシャ人は敗れたペルシャ人を軽蔑し、彼らは王の奴隷も同然だと見なしていた。その一方でギリシャ人は、ペルシャ人が戦場に残した豪華な天幕や金銀の家具調度品に目を見張り、異国情緒あふれる文物に強いあこがれを抱いた。アテネが派遣した外交施設もペルシャ王から豪華な贈物を受け取り、数々の舶来品をもたらした。その中には孔雀もあった。ペルセポリスの浮彫りにもあるように、日傘はペルシャ王の権力を象徴する持物だった。アテネの上流市民がこれを真似たのは、磁針の社会的地位を誇示するためである。奴隷は本来なら生産労働に使うべきなのに、日傘を持った奴隷は何の価値も生み出さない。よって奴隷に日傘を持たせることは、生産労働とはかかわりのない奴隷を持つだけの財産を有していることの証明となるわけだ。
通常は、戦争に敗れた側が勝った側の文化に憧れる。ところがペルシャ戦争に勝利したギリシャ人が、敗れた側のペルシャ文化を摸倣し、ペルシャ趣味に耽(ふけ)るという、逆の現象が生まれたのである。

豊かなアジア、貧しいギリシャ

なぜギリシャ人はこれほどまでにペルシャ風を愛好したのか。世界史で習った印象とは、逆に、ギリシャよりペルシャの方がはるかに豊かだったからだ。ギリシャの国土は山がちで痩せており、ブドウやオリーブは育っても、穀物の時給は難しく、一部を除いて貴金属も乏しい。対してペルシャ人は小アジアから中央アジアにまたがる大帝国を築き、農作物から貴石に至る豊かな産物を有していた。
ヘロドトスの『歴史』第1巻によると、ペルシャ以前に小アジアを支配したリュディア王国のクロイソス王は巨万の富を持ち、その名声はギリシャ中に鳴り響いていた。同7巻では、スパルタから亡命した王がペルシャのクセルクセス王に向かって、「ギリシャの国にとっては昔から貧困は生れながらの伴侶のごときもの」(松平千秋訳)と語っている。

アレクサンドロスペルシャ帝国の後継者

アカイメネス朝ペルシャは多数の民族を支配したが、税金を収め軍役に従事する限りは内部に干渉せず、宗教や慣習に対しても寛容な態度をとった。-恥部地域の反乱や離反はあったものの、建国から200年以上も経ても、全体として安定した統治を続けていた。そのペルシャ帝国がアレクサンドロスの遠征によって滅びたのはなぜなのか、今度は東方遠征をペルシャ川から眺めてみよう。
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アレクサンドロスの侵攻に対して、個々のペルシャ人はどう対応したか。彼らの選択肢は2つあった。1つはあくまでもペルシャ王に忠誠を尽くし、侵略者と戦うこと。もう1つは自分の利得を守るため、忠誠の相手を乗り換えることである。
そもそもアカイメネス朝には帝国全体を統一するための理念やイデオロギーは存在しない。帝国をまとめていたのは王と臣下の個人的な紐帯、すなわち臣下は王に忠誠を尽くし、王は臣下に恩恵を与えて保護するという互酬(ごしゅう)関係であった。属州総督に代表されるペルシャ人貴族も、各地域の非ペルシャ人との間に同様な関係を結んでおり、こうした個人的紐帯の網の目がアカイメネス朝の統治体制を支えていたのである。そうすると、外国からの侵略者に直面した時、自分が現在所有している地位・財産・名誉が安堵(あんど)されるなら、新たな支配者に忠誠を誓っても差支えないであろう。忠誠と保護という互酬関係が成り立つなら、相手は必ずしもペルシャ王でなくてよい。これを裏切りと見るのは、国民意識愛国心を植え付けられた現代人の偏見である。そもそもアカイメネス朝に国民意識など存在しなかった。
従って方法遠征の成否の鍵は、個々の会戦での勝利だけでなく、互酬関係に基づく恩恵と保護をアレクサンドロスペルシャ人支配層に保証できるか否かにあった。この点で彼は確かに成功した。遠征1年目、小アジアの拠点サルディスの守備隊長が帰順して先例をを作り、4年目にバビロンとスーサの総督が臣従して流れを決定、アレクサンドロスは2人をあらためて総督に任命した。さらにダレイオス3世の逃走に従った高官たちも次々に帰順した。
アカイメネス朝ペルシャの柔軟で寛容な統治体制は、多様な諸国民をまとめあげるのに極めて有効で、その方策は後のローマ帝国オスマン帝国にも受け継がれた。しかしアレクサンドロスのように征服自体を目標とする侵略者の前には、抵抗力を持たなかった。アカイメネス朝はその卓越した統治体制のゆえに成功し、その統治体制のゆえに滅亡したのである。他方でアレクサンドロスの征服も、ペルシャ帝国の体制を破壊することでなく、それを継承することで実現した。ゆえに彼は事実上アカイメネス朝の後継者である。ペルシャ帝国は滅びたが、その体制の核心部分は王朝を超えて生き延びたのである。